皇清開國方略太宗文皇帝 天聰八年 1634年(正月〜六月)

春正月庚寅 外藩禁令の申明

  • 元旦の朝賀に集まった科爾沁・敖漢・柰曼・喀喇沁・扎嚕特・巴林・烏喇特・阿嚕科爾沁・翁牛特の諸部長に賜り物を与え、太宗は蒙古諸部の法制未整備を戒め、夫のある婦人を奪って他人に配した者への罰(駝五・馬五十、加えて元の夫への賠償)、姦通や拐帯した場合の死罪、盔甲・馬印・纛の規格違反への処罰などを定めた。

丁巳 功臣身後免丁例と漢官の丁徭負担問題

  • 従来、興祖直皇帝以下の宗支のうち官職ある者のみ丁の徭役を免じていたが、本人分に加え二丁・三丁も酌量して免じる制を定めた。
  • 癸邜、漢の備禦官らが丁徭の過重を訴えた。太宗は当初、婦女の代金未払いによる不満と判断し戸部に価を償わせたが、なお訴えが続いたため、漢官を庭に集めて長大な諭を下した。かつて漢人を満洲大臣の隷属から切り離し一旗に編成した恩を忘れたか、他国の主は民の財を私用に費やすが清の君臣は国賦・民力を私せず、大凌河降人の扶養や賞賜の原資はすべて八家貝勒の均出であること、滿洲の徭役(三丁抽一の従軍のほか、台の守備・製鉄・工匠・牧馬・耀州製塩・朝鮮使臣の応接・駅馬・辺城修築・警備等三十余項)は漢人よりはるかに重いことを、具体的に列挙して反論した。
  • 総兵官石廷柱・馬光遠・王世選らは訴えの経緯を知らなかったとして首謀の備禦八人の処罰を願い出たが、太宗は「知らぬと言いながら処罰すれば、以後苦しみを訴える者がいなくなる」として釈放させた。丁巳、大凌河従軍で戦死した遊撃祝邦成の妻の丁徭免除を貝勒多爾衮が上奏すると、太宗はこれを八丁免除と定め、以後嗣子のない功臣の未亡人には官職に応じて丁の半分を免じる例とした。

二月己巳 浩斉特部の来帰と呼爾哈頭目の朝貢

  • 喀爾喀所属の浩斉特部台吉額琳臣・塔布囊巴特瑪が壮丁二百三十九人・婦女幼丁六百九十七口・駝馬を率いて帰順し、太宗は出迎えて宴を賜り、甲冑・雕鞍・蟒衣・狐裘・銀器・緞布を与えた。あわせて黒龍江沿岸の呼爾哈部頭目羌図禮瑪爾罕が貂皮六百六十八張を貢したことを賞し、呼爾哈への今後の慎重な対応を諭した。

甲申 錦州方面への捉生と祖大寿への書

  • 正月、図嚕什勞薩ら前哨部隊を錦州方面へ派遣し、勝敗の先後を争わず整然と追撃するよう命じた。九日間で百二十五人を斬り、樵車・牛驘驢を得、祖大寿の子が燕京から錦州へ来たとの情報を得て凱旋した。
  • 二月戊辰、図嚕什・阿山らに祖大寿宛の書と大凌河降将ら十三通の書簡を託して再び錦州へ派遣したが、明兵は城に籠って応じず、十三山站に書を掛けて引き上げた。

三月甲辰 較射賞格の制定

  • 己亥の大演習では、貝勒岳託の指揮のもと満洲八旗・蒙古二旗・旧漢軍一旗が瀋陽城北郊に整列し、太宗が親閲して歩伐の整斉さを賞し、兵一人ごとに銀一両を賜った。あわせて諸貝勒配下の護軍と侍衛の較射を行い、命中数に応じた布の賞格を定めた。

夏四月辛酉 都城・官職名の改定

  • 瀋陽城を「天眷盛京」、赫図阿拉城を「天眷興京」と称し、功により五備禦以上を管轄する総兵官を「一等公」、その他の総兵官を「昂邦章京」(今の子爵に相当)、副将を「梅勒章京」(男爵相当)、参将・遊撃を「甲喇章京」(軽車都尉相当)、備禦を「牛彔章京」(騎都尉相当)と改称した。太宗は「事の初めを忘れざる者こそ久しく続く」と述べ、蒙古が自国語を厭い異俗に倣って国運を衰えさせた例を戒めとし、清独自の呼称を定着させるよう命じた。

庚辰 尚可喜の来帰

  • 前年七月の旅順口攻略で明総兵黄龍が戦死した後、広鹿島を守っていた副将尚可喜が部校盧可用らを通じて内応を申し入れ、天聰八年二月には長山・石城の二島も合わせて広鹿島とともに帰順した。
  • 太宗は八旗から馬を集めて出迎え、海濱の諸貝勒や富裕な家々に糧四千余石を出させて扶養し、四月には自ら十里外まで出迎えて総兵官に任じ、過去の罪をすべて赦す勅書を与えた。随行した盧可用・金玉奎も参将に任じられ、海州に居を構えた。

辛巳 挙人の考取

  • 天聰三年の儒生取試(三百余人から二百人選抜)に続き、八年三月には漢人生員三百余人を試して等級を定め銀を賜り、さらに満洲・蒙古も合わせて試し、挙人十六名(満洲・蒙古・漢のそれぞれで満洲書・漢書修習者)を選抜し、衣一襲・四丁免除の恩典を与えて礼部で宴を催した。

五月庚寅 軍士営隊名の制定

  • 三月、都元帥孔有徳・総兵官耿仲明の旗纛の色を八旗と区別するよう定め、総兵官尚可喜には皂色に白い円心の旗纛を定めた。あわせて、これまで統率者の名で呼ばれていた各隊を、護軍・前鋒・守兵・辺兵・援兵・砲兵・騎兵・歩兵など機能別に呼称を改め、蒙古兵は左右翼、石廷柱・馬光遠隷下は漢軍、孔有徳・耿仲明隷下は「天祐兵」、尚可喜隷下は「天助兵」と称した。
  • 壬寅、部落を率いて帰順した功臣や実戦で功績を挙げた者の授かった職は世襲罔替とし、功績なく才により授職した者は本人一代限りとするなど、勅書の書式を分けて定めるよう吏部に命じた。

丁未 明国征討の出兵準備と進発

  • 出征に先立ち蒙古諸部に会師の期日を伝え、牛彔ごとに騎兵二十・護軍八の先発、右翼五旗は上榆林、左翼五旗は沙嶺経由での進発を定め、行軍中は本纛を離れず、酒に酔わず、田畑を踏み荒らさぬこと、俘獲した蒙古は現主が扶養を保証できる場合のみ同行を許すことなどを軍令とした。弓匠・鉄匠・雲梯・冬衣・帳房まで細かく供出を定めた。
  • 留守には貝勒濟爾哈朗、大臣蒙阿図・薩璧翰・巴奇蘭・舒賽を配し、敵情探索を慎重に行い軽々に張皇せぬこと、朝鮮が隙を狙って事を構える恐れがあること、沿海諸島の漢人はすでに孔有徳・尚可喜らに収容されたため皮島の残兵は多くないことなどを説き、大砲の配備・整備を命じた。濟爾哈朗が寧遠・錦州方面の兵力低下に乗じた攻略を提案したが、太宗は威武を示す程度の限定的な行動にとどめるよう答えた。
  • 貝勒杜度・大臣薩木什喀には海州の防衛を、大臣図爾格・勞薩には彰武台河沿いでの外藩蒙古の守衛と敵兵の牽制を命じ、兵力の配置や合流の判断基準を細かく指示した。丁未、太宗は撫近門を出て堂子に八纛を列べ、天を拝して西へ進発した。

六月甲申 喀喇鄂博への進軍と科爾沁部の内紛

  • 五月丙申、科爾沁への調兵に赴いた伊拜の報告により、科爾沁貝勒額爾済格の子噶勒珠塞特爾・海賴・布延岱・白固類・塞布類らが北方索倫部への遠征を口実に部衆を率いて叛去したことが判明した。土謝図済農・扎薩克図杜稜・秉図貝勒・卓哩克図貝勒がこれを追討中との報を受け、太宗は留守の貝勒に索倫部への使者を早く帰国させるよう伝え、法に基づき叛者は誅すが人民を奴とするかは科爾沁側の裁量に委ねるとした。
  • 諸蒙古部長が続々と兵を率いて合流し、太宗は錫喇烏蘇河南の平岡で大宴を催し、行軍中の略奪・廟宇破壊・婦女暴行を禁じる軍律を改めて頒布した。前鋒将伊勒穆が明の哨兵を捕らえ、進軍路の情報を得た。
  • 貝勒徳格類・大臣覚羅色勒・宗室芬古に両藍旗兵と蒙古左翼兵を授けて独石口・居庸関攻略へ向かわせた。まもなく希福が科爾沁の追討完了(噶勒珠塞特爾ら叛徒の部下戸口を収めたこと)を復命すると、太宗は叛徒討伐の理非を諸部長に諭しつつ、翁牛特部長の弟が越境放牧した件は寛大に半減の罰にとどめ、叛徒の家産・人口を扎賚特部・土黙特部などへ分配し、班第・塞本・額古ら旧叛意ある者の管理も他の部長に委ねた。
  • 甲申、喀喇鄂博に至り、大貝勒代善・貝勒薩哈璘・碩託・大臣葉克舒・葉臣に両紅旗兵と蒙古右翼兵、敖漢・柰曼・烏喇特・喀喇沁・阿嚕の諸部長を率いさせ、得勝堡経由で大同方面への進軍を命じた。