皇清開國方略太宗文皇帝 天聰七年 1633年

春正月庚子 勧農講武の令

  • 太宗は八旗の備禦官を集め、耕作に適さぬ授田地は沃壌に換給し民を移居させること、貧民には有力者が牛具・種籾を貸し与えて代耕させること、善射こそ清の制勝の技であるから長幼ともに稽古に励むよう命じた。同日、大臣阿山・覚羅布爾吉が鹿島を襲い、二十日余りで捕虜百七十三人・馬牛九十八を得て凱旋した。
  • 乙卯、前年冬から派遣していた大臣武巴海の乌扎拉部征討軍が凱旋した。八旗兵を四路に分けて渥赫河へ進み、三百三十八人を斬り五百余人を捕虜とし、馬・貂狐等の毛皮千余枚を得て、諸将に分配した。

二月癸亥朔 茂明安部の来帰

  • 茂明安部の徹根汗・固穆巴図魯・達爾瑪岱衮らが部を挙げて帰順し、太宗は殿上で朝見を受け、抱膝の礼で迎えて宴を賜り、甲冑・雕鞍・銀器・縀布を与えた。

三月丁酉 築城兵役の慰労と明国への布告

  • 疆土の拡大に伴い、貝勒濟爾哈朗・阿巴泰・阿済格・杜度にそれぞれ岫巌城・蘭磐城・通遠堡城・鹻場城の築城を監督させ、太宗は労役の兵士を羊で犒った。
  • 甲寅、大臣図嚕什勞薩らに寧遠以西へ派兵し、道中で明の民に布告を掲げさせた。前年の察哈爾親征時に大同・宣府一帯を侵さず盟約を守った経緯を述べ、再三の和議要求に応答がないため、辺城外に耕牛・農具を持ち込んで屯田する構えを示し、明側の文武に決戦か和議かの決断を迫った。両翼に分かれて進み、沙河所から寧遠前屯衛の間で四百人を斬り、哨兵の百総一人を捕らえて帰還した。

夏四月辛未 遼河での明軍撃破

  • 三月、句驪河(内外遼河の合流点)に備禦蘇爾棟らの兵三百を家族ごと駐屯させたところ、海州・牛荘・海州河口の守将らが遼河を巡邏中に明の船五隻と遭遇し、寡兵ながら二隻を奪い八人を捕虜とした。
  • 辛卯、太宗は郊外を巡視し陽什穆河岸で諸貝勒と閲兵し、敖漢・喀喇沁・科爾沁の部長らの朝貢を受けて宴を賜った。三十里競馬を催し、着順に応じて銀・蟒縀・布を細かく賞した。

六月癸酉 登州旧将・孔有徳耿仲明の来帰

  • 大凌河包囲の際、登萊巡撫孫元化が参将孔有徳に兵八百を率いて救援へ向かわせたが、途上で食糧が尽きて叛乱を起こし、登州城を陥落させて孔有徳が都元帥、耿仲明が総兵官を自称した。両将は明軍に敗れて後、水路から清への帰順を三度にわたって申し入れた。
  • 太宗は内厩の馬や諸貝勒の馬を選んで両将に賜り、東京駐屯・旧部の統率を認め、用兵・刑罰のみ奏聞を求める寛大な処遇を示した。諸貝勒には迎接と、清軍がかつて遼民を害した反省から新附の衆を害さぬよう厳命した。
  • 太宗は諸貝勒とともに渾河岸で孔有徳・耿仲明を出迎え、天への三跪九叩頭の礼を行わせた後、当初は抱見の礼を不相応とする貝勒らの意見を退け、両将が登州を取り航海して来帰した功は大きいとして抱見の礼で迎え、大宴を催して自ら酒を勧めた。孔有徳には都元帥印、耿仲明には総兵官印を授け、過去の罪科をすべて赦す勅書を与えた。
  • 帰順の経緯で、遊撃張文煥ら先着の一団は登州陥落の顛末(穴を掘り火器で城を破ったこと、旅順口で攻めきれず雙島に退いたこと)を語り、また都司毛有明が兄も孔有徳配下の大帥であったことから間諜の疑いを解かれ、厚く賞された。
  • 丁亥、太宗は諸臣に、忌憚なき直言を求める諭を発した。

秋七月辛卯朔 漢軍戸口の分編

  • 八旗に隷属していた漢人千五百八十戸を分立させ、十丁ごとに綿甲一領を授け、総兵官馬光遠に統率させた。

八月庚辰 旅順口攻略の凱旋

  • 六月、孔有徳の残衆が獐子島へ移送されたのを機に、貝勒岳託・徳格類、大臣楞額哩ら、石廷柱率いる旧漢軍、孔有徳・耿仲明率いる新附兵ら合わせて一万余で明の旅順口を攻めた。太宗は自ら堂子で見送った。
  • 旅順口城は陥落し、明の総兵黄龍は敗れて自刎した。捕虜五千三百余、馬牛驘驢数百、金二十二両・銀二万一千二百両、人参・裘服・皮張・緞疋等を得た。太宗は皮島攻略の可否を問われたが、大局への関わりが薄いとして見送り、寧遠の兵力低下に乗じて改めて寧遠攻略を図る意向を示し、旅順口には守備兵を残して班師させた。
  • 貝勒らの上奏によれば、孔有徳・耿仲明配下の兵が城内で家屋・人口を我が物顔に取ったため軍中に不満が生じたが、直接には介入せず得た物をそのまま与え、正規に得た俘獲七百四十八名は別途分配したという。太宗は迎えの官を送り、礮車は盖州に留め置いて後日輸送させ、渾河岸で盛大に出迎えて大宴を催した。
  • 太宗は孔有徳を落馬の怪我から労い、旗纛の色や軍器の管理、印牌・標識の徹底などを両将に指示した。同月、赫図阿拉・蘭磐城・岫巌城の守将らが明領へ捉生に赴き、盗参者や哨兵を斬獲して献じた。

九月庚子 明国征討方針の評定と山海関出兵

  • 六月、太宗は明・朝鮮・察哈爾いずれを優先すべきか諸貝勒大臣に諮問した。濟爾哈朗は朝鮮への互市継続と明への深入り持久戦を、阿済格は大凌河同様の包囲戦の非効率を指摘して速戦を、多爾衮は燕京包囲による長期消耗策を、多鐸は山海関外より直接長城内へ攻め入るべきことを、それぞれ具申した。杜度・岳託・薩哈璘・豪格・阿巴泰・揚古利ら他の諸貝勒・大臣も、燕京・通州・山海関のいずれを衝くべきか、俘獲の分配方法、農繁期との調整などをめぐりそれぞれの見解を述べ、議論は多岐にわたった。
  • 八月壬戌、太宗は貝勒阿巴泰・阿済格・薩哈璘・豪格、額駙揚古利に蒙古軍を合わせ兵二千を授けて山海関方面へ出征させ、明の人民に対し、戦は明の辺吏が葉赫に加勢したことに起因し、和議を退けているのは明の朝廷の怠慢だと布告させた。転戦の末、寧遠経由で帰還した。
  • 九月庚子、太宗は凱旋を迎えたが、深入りせず早々に退いたことを咎め、殿を務めるべき将が先に退いたこと、以前罪を得た図爾格・納穆泰・蘇納が功を挙げる好機を逃したことを叱責した。阿済格は、糧秣確保のため兵を休ませようとした自分の意見に阿巴泰・薩哈璘・豪格が従わず旧路帰還を主張したため、自分が押し切って寧遠経由の正路を選んだと弁明した。太宗はこれを了とし、今後の軍議での慎重を求めた。
  • 甲辰、演武場で満洲・蒙古・漢軍の将士に較射を行わせ、旧漢軍に帑銀を頒賜した。乙巳、旅順口攻略の功を論じ、真っ先に上陸奮戦した者や陣亡者の子への職の承襲・恤銀を定めた。庚戌、登州都司蔡賓が寧遠への護送中に護送役を殺して来帰し、太宗は孔有徳に委ねて処遇させた。

冬十月丙寅 演兵と六部・文館への訓諭

  • 八旗護軍を左右翼、満洲・旧漢の歩騎軍を配し、紅衣砲三十位等を並べて大規模な演習を行い、砲声・角声による進退の号令を徹底させ、整斉な歩伐を賞して銀一両ずつを与えた。
  • 己巳、六部の啓心郎に対し、戸・吏・兵の三部は事務が妥当だが礼・刑・工の三部にしばしば疎漏があると指摘し、各貝勒が私邸で政務を処理する傾向を戒め、啓心郎の職責を果たすよう命じた。また漢人の啓心郎らが航海による山東攻略や山海関攻めを軽々に主張することを、危険な策であり軍事は太宗と諸貝勒が慎重に図るべきものだと諭した。
  • 太宗は文館の諸臣に、巴克什額爾徳尼が編んだ満文史書とその後の増補(庫爾禅による)に不備が懸念されるとして、太祖の用兵・行政の記録を子孫のため精確に整えるよう命じた。

十一月丙申 薩哈勒察部頭目の来朝

  • 薩哈勒察部の頭目費揚古満岱ら四十六人が貂皮千七百六十九張・青布二千六百三十疋を献じ、朝見の後、鞍馬・櫜鞬・蟒衣・帽靴・銀器・緞布を賜った。

十二月辛未 従猟違令の処罰

  • 十一月辛亥、葉赫での行猟に際し、囲みへの無断侵入や隊列離脱、猛獣発見時の不告げなどを細かく禁じる規定を発した。規定に基づき、貝勒多鐸が部下を後方に置き連絡を怠った罪、貝勒多爾衮・豪格が従猟者の隊列を監督しなかった罪でそれぞれ馬一頭の罰を科された。