皇清開國方略太宗文皇帝 天聰六年 1632年(四月〜十二月)
夏四月戊辰朔 察哈爾親征の発端
- 前年十一月、察哈爾の林丹汗が阿嚕部長達賚楚琥爾の牧地を侵略したとの報を受け、太宗は薩哈璘・豪格に兵四百を先発させ、自らも二千を率いて後を追ったが、林丹汗はすでに遠く去っており、脱走した四人の供述からも同様の事情が確認されたため、蒙古の随征者に恩賞を与えて一旦兵を収めた。
- 六年三月、太宗は改めて諸蒙古部長に会師を命じ、出征に先立ち軍紀を厳格に定めた(喧嘩・大纛からの離脱の禁、失火の際は死罪、武具への標識義務など)。留守には大臣阿山・覚羅布爾吉、貝勒阿巴泰・杜度、額駙揚古利・佟養性を配した。
四月 興安嶺越えと蒙古諸部の会師
- 太宗は撫近門を発し、増水した遼河を舟で渡って諸方を進軍した。喀喇沁・土黙特・扎嚕特・阿嚕・科爾沁・巴林など多数の蒙古部長が続々と兵を率いて合流し、太宗はそのつど宴を催し鞍馬・甲冑を賜った。
- 太宗は蒙古諸部長に対し、清が蒙古の美女・良馬・人材を強奪したことは一度もないと述べ、土謝図額駙奥巴が兵馬を惜しまず参陣したことを称賛する一方、阿嚕諸部長が兵馬を出し渋っていることを咎め、婚姻など対等な贈答は認めるが強要は許さぬと訓諭した。
五月 察哈爾追撃の断念と帰化城進駐
- 興安嶺を越えて公固哩河に至ると、林丹汗はすでに清の大軍来襲を知って部衆家財を挙げて西方へ逃れていた。太宗は追えば追うほど遠ざかり馬と糧が尽きると判断し、いったん帰化城(元の土黙特部長の旧城)に駐留し、先発の阿山・図嚕什勞薩を呼び戻して合流した。
- 軍令として、抗戦せず投降した者は殺さず、寺廟の器物を奪ったり婦女を犯したりする者は死罪とする規定を発した。捜索の末、察哈爾部衆の所在が判明すると進撃を決した。
- 太宗は隨征の蒙古諸部にも、命令なく進退しないこと、夜襲の際は騒がず陣を守ること、火を挙げて敵に気取られぬことなどを厳命した。追跡した勞薩隊は察哈爾の哨兵を破ったが、本隊はすでに遠く逃げ去った後だった。
- 太宗は諸貝勒に、深追いすべきか遺棄された部衆を収めて明領へ入るべきか諮り、明境に近いことから旋師せず遺棄部衆を収めることに決した。額駙達爾漢配下の者が逃亡して敵に軍情を漏らしたため察哈爾に逃げられたことが判明し、太宗はこれを叱責しつつ遼河岸の防備強化を命じた。
五月 行軍中の狩猟と両翼分進
- 進軍の途上、太宗自ら矢で黄羊を射止め、両翼で大規模な巻き狩りを行い数万頭を得たが、炎暑と水の欠乏で士卒が倒れる者も出た。
- 貝勒阿済格に蒙古諸部の兵一万を率いさせ大同・宣府方面へ、貝勒濟爾哈朗・岳託・徳格類・薩哈璘・多爾衮・多鐸・豪格に右翼二万を率いさせ帰化城の黄河一帯へ向かわせ、太宗自らは代善・莽古爾泰と共に本隊を率いて隘口から黄河・宣府方面まで進み、逃げ遅れた居民を捕虜として戸口に編入した。帰化城のラマ僧らも朝見し、太宗は宴を賜って送り出した。
六月甲戌 明国境への進軍と和議交渉
- 帰化城から黄河一帯へ出た諸将は察哈爾の遺棄部衆を千余人捕らえ、科爾沁の従征部長も明境近くの沙河堡に逃げ込んだ察哈爾の人々の引き渡しを求める書を送った。太宗は自ら通事を派遣し、蒙古の旧属は清が取れば清の物であると論じ、遼東官員の葉赫介入の前例を引いて速やかな返還を求め、沙河堡側は蒙古の男女・家畜・布帛を差し出した。
- 帰化城の格根汗廟では廟宇や器物の私的破壊・略取を厳禁する旨を掲示した。捕獲した金銀・縀疋・牛羊は諸貝勒に分配し、総兵官麻登雲や大凌河降将祖可法らにも品級に応じて厚く賞した。
- 太宗はさらに大同・宣府・張家口の官員に書を送り、清の挙兵はもとより中原の簒奪を望むものではなく、遼東官員の不正と葉赫加勢への怒りに発すること、これまで幾度も和議を求めたが応答がなかったことなどを説き、十日以内の回答を求めた。
- 得勝堡・宣府の官員が牛羊・縀疋を献じて和を請うと、太宗はこれを受け、科爾沁兵三人が私に明の牛驘を盗んだ罪で首謀者を斬り、従者二人を鞭打つなど信義を示した。宣府巡撫・総兵が盟約を請うたため、大臣阿什達爾漢らが立ち会い、白馬烏牛を刑して天地に誓い、盟書を焚いて金五十両・白金五百両・蟒縀布帛を献上させた。
秋七月丁酉朔 凱旋と張家口への修好の書
- 得た財帛の五分の一を土謝図額駙奥巴に、残りを諸将に分配し、士卒を犒った。太宗は改めて張家口へ書を送り、盟約を守り捕らえた哨卒を送還したこと、私に盗みを働いた自軍の兵は現地で処罰したことなどを述べ、遼東の人々を交渉に交えぬよう求めた。班師の途上、明の辺境守臣が献じた和好の礼物のうち黄金・琥珀・倭縀を辞退し、蟒縀・布・茶などのみ受けて諸貝勒に分配、蒙古諸貝勒にも縀を賜って帰した。壬寅、牛を屠って纛を祭り天に告げ、興安嶺・遼河を経て瀋陽に凱旋した。
八月丙寅朔 大凌河降衆の逃亡への訓諭
- 大凌河の降人に逃亡者が相次いだため、太宗は額駙佟養性と文館諸臣に、包囲三月に及んだ彼らを見捨てず衣食妻室を与えて養ってきた恩を説かせ、宣府親征と和議のため帰郷が遅れたことへの不満から逃亡したのであれば筋違いであり、和議が成れば辺市が開かれ国も富み栄えると諭させた。
九月癸卯 盖州城の修築
- 未設防だった盖州の地に城を築いて移民を実施し、副将石国柱・遊撃雅什塔らに兵六百を率いて駐防させた。貝勒徳格類・岳託に耀州以南から盖州にかけての疆土の経理を命じた。
冬十月甲戌 寧遠への和議督促
- 宣府からの凱旋七日後、太宗は明出身の文館儒生沈文奎・孫応時・江雲を召して和議の見通しを問うた。三者はいずれも明側が和議を軽んじ、遅延策を弄していると分析し、江雲は和議不成の公算が七割に及ぶとしつつ、まず使者を送って試すべきと進言した。
- 太宗は喇嘛偉徴囊蘇を寧遠へ遣わし、和議の条件として大凌河降官の返還や国境譲歩を求める明側の要求を退け、清の二代(太祖以来)の恨みを一日も忘れぬが太平を望むゆえ和を求め続けていること、撫順攻略以来の両国の強弱は明白であること、袁崇煥との和議交渉時に明が城を修めて逆に攻めてきた前例などを述べた。
- あわせて崇禎帝宛の書も託し、清の挙兵は辺吏の欺侮による恨みが朝廷に届かなかったことに起因し、宣府での盟約以降は辺境を侵していないと重ねて説いたが、寧遠側は書が「封を露わにしたまま」であることを理由に開封を拒み、なお返答は得られなかった。
十一月丁未 朝会班次の整飭
- 六部を分掌する貝勒を集め、朝会での承政・参政らの序列が乱れていることを戒め、満洲・漢・蒙古の諸臣に班次を守らせるよう命じた。
十二月乙丑 服式の申定
- 二十日を期して、黒狐帽・五爪龍・明黄・杏黄・金黄の色などは太宗の下賜以外に用いることを禁じ、護軍・護衛以上には縀衣を、それ以外には布衣を用いさせる制を定めた。太宗は、一縀の値で布十反分の衣が作れることを挙げ、贅沢の抑制と貧民への配慮の両面から布の使用を奨励した。
十二月辛巳 行猟禁令の厳格化
- 十月、開原での行猟中、侍衛詹土謝図が虎に襲われて落馬した際、太宗は自ら馬を駆って虎を追い払い、他の侍衛が虎を射殺する一幕があった。
- 甲戌、狩猟中の窃盗(鞍轡等の盗取)が絶えないことを咎め、捕らえた九人をそれぞれ鞭打ちに処した。庚寅、葉赫での行猟では、諸貝勒が猟師の獲物を横取りせぬよう戒め、癸酉、撫順での行猟では民の薪を盗んだ猟卒八人を鞭打ち、以後の莊屯の薪や山木の私的伐採を厳禁した。
- 庚辰、額葉での行猟で太宗自ら虎を射止めた際、侍衛巴図魯噶爾珠が刀で虎に立ち向かい落馬したことを、勇は戦陣で発揮すべきものだと戒めた。辛巳、行猟の隊列が乱れたことを受け、以後は各旗ごとに大臣一人を専任させて統轄する制を定めた。