皇清開國方略太宗文皇帝 天聰五年 1631年(十月〜閏十一月)
冬十月戊辰 祖大寿への招降書
- 大凌河城を七日間包囲した太宗は、総兵祖大寿に書を送った。これまで再三和議を持ちかけたが返答がなく、やむを得ず出兵したこと、明主は宋の後裔ではなく清も金の後裔ではないから旧例に拘泥する必要はないこと、捕らえた都司王延祚を殺さず養っていることなどを述べ、和を望むなら使者銀住を再び寄越すよう促した。
- 譚布率いる部隊が城外で樵採中の敵兵を破り、旗と捕虜を得た。山海関総兵の援軍三万も敗走し、捕虜が事情を語った。
十月 援軍の撃退と魚子嶂台の攻略
- 太宗は重ねて祖大寿へ書を送り、共に大業を図ろうと説いたが、城内はすでに食料が尽き、馬七千のうち生き残りわずか二百、薪も絶えて馬鞍を燃やす有様だと偵察で判明した。太宗は偽の援軍を演出して城内の士気を試し、祖大寿が出撃した隙を突いて撃退した。
- 敵の戦意を挫くため、陣中で捕らえた文武官二十三名に招降書を持たせて祖大寿の下へ送ったが、千総姜桂は援軍壊滅を告げられても「死すとも降らず」と拒んだ。
- 太宗は重ねて書を送り、清の対外政策(誅すべき者は誅し、宥すべき者は宥す)、永平占領時に民を害さなかったこと、二貝勒阿敏が灤州で救援を怠り罪に問われたこと、蒙古諸部が清に帰順して厚遇された事例などを挙げ、降伏すれば恩賞を与えると重ねて説いた。
- 図爾格・納穆泰が松山方面で捕虜を得、大凌河城から脱出した王世龍の供述で城内が人肉を食う惨状にあることが確認された。太宗は紅衣大将軍砲を用いて魚子嶂台を攻略し、これを機に周辺の諸台が相次いで降伏、あるいは放棄され、清軍は糧食を確保した。
祖大寿一族との交渉
- 城内では餓死者が相次ぎ、祖大寿は突囲を図ったが清軍の包囲が固く果たせなかった。捕虜となっていた姜新を送って招降させ、遊撃韓棟が城内の防備を視察して降伏やむなしと復命した。
- 太宗は矢文で城内の軍民に、官吏に殉じて死ぬ道理はなく、降れば臣民として扱い官職を世襲させる、小民も功に応じて処遇すると諭した。
- 祖大寿の義子祖澤潤が書を矢に付けて城外へ射出し、副将石廷柱との交渉を求めた。澤潤の書では、諸官が降伏後の殺害を恐れて意見が一致しないこと、阿敏による永平放棄の前例、清が敵国の者を貧富問わず誅すとの噂などが動揺の原因であり、次子が燕京にいる祖大寿の心情にも触れて内々の調整を依頼した。
- 石廷柱が濠のほとりで祖大寿本人と会見し、祖大寿は「国のため家のため身のため、忠を尽くせぬ以上はこの身を全うしたい」としつつ、太宗が兵を退かずまず錦州を先取する策を立てるなら妻子も守れると告げた。同席した祖可法は、遼東・永平で降伏者が再び殺された前例を挙げて人心が畏縮していると説明し、岳託は当時の混乱はやむを得ぬ事情だったと弁じた。
何可剛の死と将士の帰順誓約
- 太宗は錦州攻略の計を祖大寿に一任し、駐兵継続による兵の疲弊を避けたい意向を示した。祖大寿は太宗の裁断を仰ぎつつ、密かに人を送って錦州の弟の消息を探る策を提案した。
- 城内の諸官は祖大寿と共に降伏を謀ったが、副将何可剛だけは従わず、城外に引き出されて処刑された。何可剛は顔色を変えず一言も発さず、微笑んで死んだという。
- 祖大寿以下、副将劉天禄・張存仁・祖澤潤・祖澤洪・祖可法・曹恭誠・韓大勲ら多数の将官が城を挙げて出降し、天地に誓って清に叛かば天罰を受けると誓約した。太宗も諸貝勒とともに、降将の妻子を離散させたり財物を奪ったりすれば天罰を受けると誓い返した。
- 祖大寿は太宗の招きで清営に赴き、抱擁の礼で迎えられ、御用の黒狐帽・貂裘・金飾帯・縀靴・雕鞍白馬を賜った。両者は酒を酌み交わし、錦州攻略の策を協議した。
十一月庚午朔 祖大寿の錦州奪取策と大凌河班師
- 太宗は祖大寿を大凌河に留めず、あえて錦州へ帰し内応させる策を取った。貝勒阿巴泰・徳格類・多爾衮・岳託らが漢人の装いで兵四千を率い、祖大寿とその部下三百五十人が敗走を装って夜襲で錦州を奪う計画を実行したが、深い霧のため味方同士で識別できず失敗し、各部隊は兵を収めて引き上げた。
- 太宗は諸貝勒に、祖大寿一人を留めるより錦州に帰して内応させる方が得策であり、たとえ裏切られても損失は少ないと説明し、祖大寿にどのような合図(発砲の日取り)で成否を知らせるか問答した。祖大寿は従子祖澤遠と厮卒二十六人を伴い、小凌河を渡って徒歩で錦州へ向かった。
- 己卯、大凌河から班師した。籠城していた明の兵民・工役・商賈三万余人のうち、戦死・餓死した者はほぼ半数に達していたという。
大凌河城の破却と降将の処遇
- 太宗は祖大寿を帰した後、大凌河の城壁を毀し、降伏した将士に薙髪させて登録した(一万一千六百八十二人、馬多数)。軍中の米を集めて分配し、降将は次々と朝見して大宴を賜り、陣中で捕らえた官員との弓比べも催された。
- 濟爾哈朗・多鐸に兵三千五百を率いさせ塔山以東の海沿いの隘路を扼させ、大凌河で得た大砲・鳥銃は総兵佟養性に管理させた。かつて城内に逃げ込んでいた満洲人八人を摘発して斬り、蒙古人については天命三年以降の逃亡者を精査し、親族のある者は元の部落へ帰し、残る千五百七十人余りは精鋭を諸貝勒が収養し、他は八旗官員・護衛・富戸に分配した。
- 錦州との内応の約束は、祖大寿が伴った人数が少なく機が熟さぬまま消息が途絶え、後に使者史顕を通じて延期を告げてきた。太宗は糧秣の不足を理由に一旦瀋陽へ帰り、来春の再挙を約す返書を送った。佟養性は馬家湖台などを攻略して降伏させ、大凌河から広寧に至る墩台を悉く毀した。太宗は図嚕什・勞薩ら精兵二百を大凌河城内に伏せ置いたまま、自ら牛を屠って纛に祭り、天に班師を告げた。
監軍道張春の抵抗と厚遇
- 帰途、瀋陽から運ばれた米で将士を労い、留守の貝勒杜度・薩哈璘・豪格や朝鮮の使者が出迎えて凱旋を祝った。大凌河包囲中に捕らえられた監軍道張春以下三十三名の将官のうち、張春だけは太宗の前で跪かなかった。太宗は誅殺しようとしたが、大貝勒代善が「死をもって名を成そうとする者だ、志を遂げさせよ」と諫めて思いとどまらせた。
- 達海が張春に食事を勧めると、張春は「忠臣は二君に事えず、死をもって君に報いる」と述べて固辞し、三日絶食した末にようやく受けた。太宗は以後毎日膳を検めて与え、班師の際には陣中で捕らえた副将張洪謨・楊華徴ら、千総姜桂らに貂帽・狐裘等を、張春には貂帽・貂裘・猞猁猻裘を賜った。駐蹕先の蒲河で降将が拝礼する中、張春だけは拝さなかったが、太宗はこれを咎めず降将の上座に座らせた。
- 降伏した副将・参将・遊撃らは八旗に分属させ(各旗四員)、祖大寿の子姪には邸宅を与えて客礼で厚遇し、都司・守備以下は旧漢官に預けて養わせた。河東・河西出身で分けて配置し、原主のある者は返還した。副将張洪謨は貝勒多爾衮に、監軍道張春は薙髪を拒んだため白喇嘛と共に三官廟に住まわせた。
- 戊戌の大宴で、太宗は「大凌河の空城を汝らが守り我が兵が攻めたのは天の配剤である」と述べ、蒙古対応で遅延したことを詫び、祖可法は連日の饗宴に感謝を述べた。太宗はさらに八家が交代で五日ごとに大宴を催すよう命じた。
閏十一月庚子朔 貝勒子弟の就学令と寺廟私建の禁
- 太宗は諸貝勒大臣の子弟に読書を命じ、永平放棄が守将の学問不足による判断ミスに起因すること、大凌河籠城側が学問により忠義を守り抜いたことを例に、八歳から十五歳までの子弟に就学を義務づけた。
- 庚戌、私に寺廟を建立する風潮を禁じ、僧侶を称して婦女を匿う者や、巫覡・占い師が吉凶を語って財物を騙し取る行為を厳罰とする令を発した。大凌河の帰順官には貂・狐・猞猁猻等の皮裘・靴・被褥を身分に応じて賜り、謝恩の宴を重ねて開いた。