皇清開國方略太宗文皇帝 天聰五年 1631年(正月〜九月)

春正月壬午 紅衣大砲の完成

  • 清はこれまで火器を備えていなかったが、この時初めて紅衣大砲を鋳造し「天佑助威大将軍」と命名した。督造官は総兵官・額駙佟養性であった。
  • 太宗は佟養性に漢人の軍民に関わる一切の事務を統理させ、公平な人材登用と兵民の撫恤を求め、廉頗と藺相如の故事を引いて私怨を捨て国事を優先するよう諭した。あわせて漢官らにも佟養性の指揮に従うよう命じた。
  • 太宗は文館を訪れ、記録中の内容が自らの言行の記注であると知ると史官の職分として遠慮し、代わりに達海訳の兵書を読んだ。その中の「将が兵と労苦を共にする」逸話に触れ、額駙固三泰が戦死者の遺体を縄で引きずって運ばせたことを士卒軽視として非難した。

二月庚申 辺境守備軍令の厳格化

  • 従来の烽火規定(敵兵の規模に応じ蓆・砲の数を変える)に加え、逃亡者の追跡・通報を厳格化し、報告の遅延には鞭打ちの罰を定めた。副将石廷柱には、烽台の怠慢を戒め、軍律を各台に頒布して日夜諳唱させるよう命じた。
  • 同月、かつて永平撤退の罪で革職されていた納穆泰・布爾吉を明境へ派遣し、台を攻略して捕虜を得るなどの功を挙げさせた。

三月乙亥朔 群臣への直諫の奨励

  • 太宗は大貝勒代善・三貝勒莽古爾泰、議政の十貝勒(阿巴泰・徳格類・濟爾哈朗・阿濟格・多爾衮・岳託・多鐸・杜度・薩哈璘・豪格)、八大臣(楞額哩・達爾漢・和碩図・色勒・喀克篤哩・伊爾登・葉臣・固三泰)にそれぞれ書を送り、国人の間に刑獄の不公平や賞罰の偏りへの怨言があると聞くとして、忌憚なく諫言するよう求めた。
  • これに対し諸貝勒・大臣は口々に、これまで沈黙していたのは見識不足のためであり、以後は公正に努める旨を誓い、刑獄を担う人材の選抜や、密告制度の改善、行軍時の指揮系統の明確化など具体的な改善策を提言した。同日、固三泰は職務怠慢を理由に罷免された。

丁亥・甲午 鉄砲演習の褒賞と瓦爾喀征討の慰労

  • 新旧の漢軍を整列させ鳥銃・火砲の発射演習を行い、太宗自ら視察して精良な出来と練達した操作を賞し、銀を賜った。
  • かつて派遣した大臣蒙阿図らの瓦爾喀征討軍が、男女幼子あわせて三千百余人と多数の毛皮・家畜を得て凱旋し、太宗は自ら出迎えて宴を催し、御膳を撤して労った。
  • 同月、かつて清から明へ逃亡した劉興祚の弟・劉興賢が誅された。興祚一族の逃亡・帰順・内紛の経緯は複雑で、最終的に興治・興亮兄弟が島内で殺され、その妻子や残された部衆は朝鮮を経て瀋陽へ送られた。太宗は興賢の母や興祚らの妻子については、母に罪はないとして寛大に扶養を続けさせた。

夏四月丙午 察哈爾親征の中止

  • 太宗は察哈爾討伐のため䝉古諸部に会師を命じ自ら三窪の地まで進軍したが、科爾沁部の土謝図汗奥巴が、馬を肥やしてから大挙すべきと進言したため、太宗はこれを妥当と認め軍を退かせ、明討伐を今秋に、察哈爾討伐は翌春に行うこととした。会議の宴席で飛来した雉を太宗が射止め、䝉古諸貝勒はこれを瑞兆とした。

五月辛丑 朝鮮との交渉

  • 正月に来貢した朝鮮国王李倧の使者朴蘭英・李必章に対し、太宗は貢物を辞退しつつ厚く物を賜った。使者との問答では、朝鮮がかつて明に加勢して清に敵対した経緯や、清が寛大に城地・捕虜を返還した恩義が語られた。
  • 太宗は李倧に書を送り、朝鮮の貢納が年々減じていることを咎め、己巳年(天聰三年)の明国遠征での成果や、明国が偽りの戦功を朝廷に奏上している実態を挙げて、朝鮮が明を過大評価しないよう説いた。また、清が盟約を違えるつもりはないこと、朝鮮の家臣の一部が独断で清の使者暗殺を謀った一件(安州の守臣に阻止された)についても触れ、朝鮮に翻意を求めた。
  • 李倧が使者魏廷采を送り再び貢物を献じると、太宗はさらに書を送り、劉興治兄弟の帰順時に朝鮮が糧食を渋ったこと、明人の上陸を許した土地問題、南海諸島征討への船の提供要請などを述べたが、李倧は明を父の国として援助を拒み、使者は空しく帰還した。

六月癸亥 功臣爵職世襲の制定

  • 他国の貝勒が平時に自発的に帰順した場合は子孫世襲罔替、危難のうちに帰順した場合は陣亡准襲五次・病故准襲三次とするなど、帰順の事情・身分・功績に応じた世襲回数を細かく定めた。
  • 丁未、太宗は代善と遼河で漁を楽しんだ帰途、民田を荒らした者二人の耳を貫いて見せしめとした。同月、諸将を分けて明境へ捉生を送り、多くの俘獲を得た。

秋七月甲戌 海島征討の帰還

  • 楞額哩・喀克篤哩を左右の主帥として明の海島(毛文龍旧属の諸島)へ出兵させ、朝鮮を犯さぬこと、島の漢人には招降を優先し、拒めば朝鮮から船を借りて攻めるよう命じた。朝鮮が船の提供を拒んだため、明の哨兵からの情報で総兵黄龍が既に入島していることを知り、清軍は小規模な海戦で明兵を破って撤退した。
  • 同月、海州・耀州の守将らが渡海してきた明兵を合撃し、船を奪い捕虜を得た。

庚辰 六部の設置

  • 太宗は貝勒大臣を集めて官制を議定し、六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)を設けた。吏部は貝勒多爾衮、戸部は徳格類、礼部は薩哈璘、兵部は岳託、刑部は濟爾哈朗、工部は阿巴泰がそれぞれ管掌し、各部に承政・䝉古承政・漢承政・啓心郎(工部のみ満洲・漢の啓心郎)が置かれた。巴克什の号を持つ文臣は旧称のまま、他は筆帖式と改称することとした。
  • あわせて、訴訟審理は証人を速やかに集めて公正に行うこと、処罰は功罪に応じて緩急をつけること、貝勒であっても不当な断罪や職務怠慢・私的な民間財物の取得には罰金(死罪の誤判には銀六百両、その他は二百両など)を科すことを定めた。
  • 辛巳、太宗は貝勒大臣に対し、新進の若手臣下が言動を飾ることを戒め、忠誠と勤勉を求めるとともに、諸臣にも自らの過ちを直言するよう改めて促した。
  • 庚寅、出征時の軍制を定め、旗ごとの総管大臣(旧称固山額真)・佐管大臣(旧称梅勒額真)・行営を率いる大臣(旧称甲喇額真)の呼称を改め、随軍の紅衣大砲・大将軍砲や輜重は総兵官佟養性が統括することとした。同月、諾囉路・呼爾哈部の頭目らが来朝し貂・狐・猞猁猻・水獺の皮を貢し、黒龍江方面の諸頭目も相次いで帰順した。

八月戊申 大凌河城の包囲

  • 明が大凌河に築城しているとの情報を受け、太宗は貝勒大臣の進言により速やかな攻略を決した。当初は虚偽の情報を伝えた者を姦細として誅したが、実際に総兵祖大寿・副将何可剛らが山海関外の兵と夫役を動員して急ピッチで築城していることが確認された。
  • 太宗は諸貝勒に、天の道理に従って仁義を行い、民を養うことこそ本義であると説き、䝉古諸部に会師を命じて自ら西征に出発した。渡河にあたっては、瀋陽・遼東の地を保つためにも明の勢力拡大を座視できない旨、俘獲民の父子夫婦を離散させぬこと、宋の宗澤の故事を引いて将は士卒を体恤すべきことなどを諭した。
  • 八月、䝉古諸部と会師し、貝勒徳格類・岳託・阿濟格の軍二万を義州方面から、太宗自ら白土場方面から進軍させ、大凌河で合流して包囲した。城壁はほぼ完成しており、総兵祖大寿以下将官約二十名、馬兵・歩兵各七千、工役・商賈計五千が籠城していた。
  • 太宗は諸旗・䝉古諸部隊に城の四方をそれぞれ担当させて包囲陣を敷き、攻城による死傷を避けるため壕と土塁を巡らせて城を囲む持久戦を選んだ。城内からの出撃はその都度撃退し、投降者は総兵馬光逺・遊撃范文程らに引き取らせて扶養した。
  • 太宗は捕虜となっていた総兵麻登雲・黒雲龍を厚遇し、城内の精鋭こそ明軍の中枢であるとの見方を語った。矢文で䝉古兵に対し、清と䝉古は本来一つの国であり、降伏すれば厚遇すると説いて投降を促した。
  • 城壁近くでの局地戦では、宗室鞏阿岱・大臣図頼らが明軍の誘いに乗って軽率に進撃し損害を出したため、太宗は軽挙を戒め、貝勒であっても戦況の主導を慎むべきこと、士卒は天と父祖から授けられた財であり大切に用いるべきことを諭した。総兵佟養性の紅衣砲による攻撃で城の望楼が陥落するなど、包囲は着実に進んだ。
  • 太宗は負傷兵への手厚い治療を命じ、古の名将が兵と苦楽を共にした故事(簞醪投河、呉起の吮疽)を引いて将の心得を説いた。城からの突囲や樵採兵への襲撃は都度撃退され、包囲網は維持された。

九月戊戌 錦州援軍の撃破と大凌河の陥落

  • 大凌河包囲直後から、阿山・勞薩・図嚕什らを錦州・松山方面に派遣して偵察・迎撃にあたらせ、松山からの援軍二千を撃破した。貝勒阿濟格・碩託の軍も濃霧の中で明の援軍六千を大破し、多数を斬獲した。太宗は自ら労い、諸将・䝉古諸貝勒とともに酒を酌み交わした。
  • 太宗は阿濟格・碩託に対し、軽率に迎撃せず敵情を慎重に見極めるよう戒め、夜襲への備えなど具体的な戦術指示を与えた。
  • 明の山海関総兵宋偉・遵化総兵呉襄・寧遠巡撫邱禾嘉が関外の兵を挙げて錦州に集結すると、太宗は揚古利に護軍の半数を率いて阿濟格軍を増援させた。さらに太宗自ら禁軍を率いて出撃し、明の援軍七千を小凌河で撃破、多くを城壕に追い落として殲滅した。
  • 続いて明の監軍道張春・総兵呉襄ら百余名の将官と歩騎四万が大凌河に迫ると、太宗は自ら大貝勒代善・三貝勒莽古爾泰らと二万の兵を率いて迎撃した。当初は敵陣が堅固で苦戦したが、佟養性の火砲攻撃中に風向きが急変し、明軍が放った火が自軍を焼く事態となった。清軍はこれに乗じて総攻撃をかけ、明軍は総崩れとなり、あらかじめ伏せていた伏兵によって退路も断たれ、総兵呉襄・監軍張春以下多数を斬獲・捕虜とした(張春は生け捕り、副将張吉甫ら三十三名を斬殺または捕縛)。太宗は諸貝勒・将士とともに天に対し三跪九叩頭の礼を行い、勝利を謝した。
  • 数日後、武拝・蘇達喇らが錦州・松山方面へ捉生を送り、明の呉襄・金国臣・桑阿爾齋らが敗走し、督師の閣臣孫承宗も山海関へ退いたことを確認した。