皇清開國方略太祖髙皇帝 編者按語

覚華島の捷報についての按語

  • 編者は按ずるに、明の袁崇煥伝によれば、天啓四年五月に毛文龍が兵を遣わして鴨緑江沿いに長白山を越え大清国東偏(輝発の地)を侵した際は守将に撃退され尽く殲滅され、八月に義州城西から渡江して島に屯田させた兵も潜師の奇襲を受けて五百余級を斬られ糧も焼かれ、五年六月の耀州官屯寨襲撃も敗退、六年五月の鞍山駅襲撃も兵千余を失い、さらに薩爾滸河攻撃も守将に退けられたとあり、これらの年月は実録の記述と符合する。
  • 崇煥は着任当初から毛文龍が兵を擁して糧餉を浪費するのを憎み誅そうとしていたが、朝廷は文龍の東江における牽制効果を頼みとし、文龍自身も癸亥年の鎮江での戦功を恃んで、しばしば降人や難民を殺しては戦功と偽って報告していた。熊廷弼が海州への軽率な出兵を諫めた上奏や、文龍の鎮江の捷が実は奇禍であり明の四衛の軍民をほぼ皆殺しにされる結果を招いたと指摘した書簡からも、識者はすでに早くからその危険を見抜いていたことがわかる。
  • 寧遠の戦いでは、崇煥が刺血して将士に誓わせ、閩の兵卒羅立に西洋巨礮を撃たせて城外の我が軍を傷つけ、再度の攻撃も退けて囲みを解かせたと明側の記録にあるが、その間に兵を割いた覚華島については崇煥も城の防備で手一杯で救援できなかった。当時、太祖は寧遠城を二日攻めても落とせず不快に思い、ひそかに軍を覚華島へ進めて数万の軍民と船・糧草を一掃した。転じて勝利をもたらしたこの深謀遠慮は、朝廷の群臣には到底測り知れぬものであり、黄道周が語った「一戦もせずして拱手で明け渡すことになる」という評は、広寧に限った話ではなかったことがここに知れる。

瀋陽遷都の意義についての按語

  • 瀋陽遷都を議した当初、貝勒大臣は大役が頻発することを恐れて反対したが、太祖の見通しは形勢を計り尽くした万全のものであり、ついに盛京に都を定め、社稷・宗廟の制を興した。創業の困難は前代の帝王をはるかに超えるものでありながら、艱難を思い平易な道を選び取ったその判断は、すべて天命を承け天の鑑戒を畏れることに根ざしており、後世に垂訓を残すものであったと編者は結んでいる。