皇清開國方略太祖髙皇帝 天命 八年 1623年

八大臣制の確立と喀爾喀部の来帰

  • 春正月戊戌、太祖は八和碩貝勒の下に置いた八大臣を召集し、各大臣は事に当たって公平に判断し、貝勒の非を隠さず直言せよ、聞き入れられなければ自分に報告せよと訓諭した。国事の成否、人材の登用・罷免、軍事の得失、諸官の功罪はすべて詳しく調べて公論に基づき奏上するよう命じた。
  • この月、喀爾喀部の台吉拉巴什希布・索諾木達頼・塔布囊莽果・鄂博和らがそれぞれ配下および他部の蒙古人合わせて約五百戸を率いて来帰し、官職と貂裘・猞猁猻裘・金銀・布帛・田畑・房舎・僮僕・牛馬・器物を賜った。
  • 先に扎嚕特部貝勒巴克は我が軍に捕らえられ、その子鄂齊爾桑を人質として巴克を釈放していた。このとき巴克が来朝すると、太祖はその誠意を評価し、鄂齊爾桑も釈放してともに帰らせた。

扎嚕特軍征討

  • 夏五月乙未、太祖は征討軍を出迎え労った。先に使者の祜類が扎嚕特部台吉達雅のもとから受け取った牛馬羊や衣服器械を、扎嚕特部貝勒昂安・忠嫩・珠徹特・扣肯らが道中で兵を用いてことごとく奪い、祜類は喀爾喀諸貝勒が盟約に背いたと報告した(洪巴圖魯貝勒杜稜だけは背かないと述べていた)。その後も昂安は使者の錫喇納・碩囉輝から馬牛を奪い、扎嚕特部貝勒色本のもとへ向かった使者伊沙穆の馬牛羊も奪われた。
  • 太祖は台吉阿巴泰・徳格類・齋桑古・岳託に兵三千を授けて討伐させた。前鋒の総兵官達音布らが昂安の属地を急襲、達音布は昂安の兵に槍で刺され落馬して戦死したが、雅希禪・博爾晉が兵を率いて突撃し昂安とその子・従者を斬り、妻子・人民・家畜を得た。あわせて貝勒忠嫩の子・桑圖の妻子も捕らえて凱旋した。
  • 太祖は自ら城を出て凱旋軍を出迎え、旗を立てて天を拝する儀式を行い、宴を催して将士に賞を分け与えた。この日雨が降ったことに寄せ、太祖は「蒙古の人々は雲のようなもので、集まれば雨となり兵をなす。散った時こそ制すべきである」と語った。桑圖は妻子を捕らえられたことを憂い、罪を許すよう嘆願する上書をしたため、太祖は使者を送って妻子の無事を伝えると、桑圖は来朝し、太祖は妻子を返してともに帰らせた。

帰順した蒙古諸部への訓戒

  • 六月甲戌、太祖は八角殿に公主・郡主らを集め、「たとえ貝勒大臣であっても罪あれば法に照らして治める。汝ら女性も夫を凌辱・驕縦してはならぬ」と諭した。
  • 続けて諸貝勒には、喀爾喀部の貝勒たちが独立した部落主権を捨てて来帰したこと、烏嚕特部貝勒が蒙古国主の暴虐を嫌って来帰したことを挙げ、こうした帰順の貝勒は我が国の貝勒と同様に扱い、罪があっても死罪とせず故地へ帰してよいと述べた。
  • さらに帰附した蒙古諸部の貝勒に対し、我が国の娘を娶った者は驕らせてよいわけではなく、察哈爾汗が侍従の妻となった娘を虐げた例のように陵辱すれば死罪もあり得ると諭し、艱苦は隠さず訴えるよう求めた。

群臣への勤職の訓戒

  • 丁亥、太祖は貝勒大臣・百官を集め、満洲・蒙古・漢人が雑居する国内で逃亡・叛乱・盗賊・奸悪を厳しく取り締まるよう命じ、職務を怠れば国が乱れると戒めた。