皇清開國方略太祖髙皇帝 按語(庚申年から壬戍年にかけての戦況に関する考証)

史論(臣等謹案)

  • 明臣黄道周の『博物典彙』は、「建州が開原・鉄嶺まで進撃した後、我が敗軍の余気は再び鼓すことができず、たやすく屈したのに、北関(葉赫)を併呑してからは一年余りも遼瀋の地に一歩も出なかったのはなぜか。それは兵食が漸く集まり、守りは足りても戦には足りぬためで、飢飽労逸を操って漸進すべきところ、戦と守の方針が定まらなかったからだ。戦って失えば守れなかったと責められ、守って失わずとも戦えなかったと責められる。かくて一戦して瀋陽を失い、再戦して遼陽を失い、広寧に至っては戦わずして手渡すことになった」と論じ、また「遼左の人は二子あれば一人を建州に使役に出し、銀と貂を得て歳末に帰る、貯まった銀は十五、六金に及び、建州の銭は積み上がっても使い道がなく、帰る者には銀三両を与えて重い銭を負わせ、途中の食を給した。負担の重さに腰背を折る者もいたほどで、城が破れれば兵威を用いずとも人心が向かった」と述べる。
  • 道周のこの論は、天啓初年、言路の輩が我が朝への対応を巡って議論百出し、守将を罪する一方で撫民を怠り民心が離反した事情を指すものであり、『明史』の記述や『実録』とも符合する点がある。『明史』熊廷弼伝によれば、廷弼が初め経略となり開原・鉄嶺を失っても遼瀋はなお保たれていたが、天啓帝が立つと御史馮三元らが交章して廷弼を弾劾し罷免した。道周が「守って失わずとも戦えなかったと責められる」と言うのは、廷弼自身の弁疏に「収拾がようやく定まった矢先に戦を迫られた、朝堂の議論はまるで兵を知らぬ」とあるのと符合する。
  • 『実録』によれば天命五年八月、我が軍が明の懿路・蒲河を征討した際、瀋陽の明兵は城外二十里で我が軍を見て退き、かつて撫順救援で覆滅した轍は踏まなかった。この時廷弼はまだ罷免されていなかった。我が太祖髙皇帝は瀋陽兵が城を出たと聞くとただ「撃って追い返せ」と命じ、その城を囲むには至らなかった。左翼一旗が瀋陽北門に迫った際、四貝勒は進撃を望んだが大貝勒代善・大臣扈爾漢が止めた理由は詳らかでないが、必ずや「彼の戦は足りず守りは余りある」との廟算に基づくものであろう。廷弼自身の上疏にも「初到の頃はなお虚勢を張り敵の疑いを誘えたが、日を経て情勢が露見し、間諜に一々報知され、また敵(我が軍)が二度開原・鉄嶺に入って収穫を奪い我が兵を誘い出そうとしても出兵できず、ますます無能を見透かされ策が尽きた」とあり、廷弼の言う「守り」もまた紙上の虚談に過ぎなかったことがわかる。翌年二月の奉集堡征討でも攻め取らずに軍を還したが、その後わずか一月余りで瀋陽の七万を潰し、旬日のうちに遼陽の八万も破り、河東の城堡七十余を平定した。明は再び熊廷弼を経略としたが、その巡撫王化貞は察哈爾・喀喇沁など諸部と結んで我に当たろうとした。我は明の戦守の方針が定まらぬ隙に乗じ、七年正月に西平堡・平洋橋堡を破り広寧を降した。道周の言う「戦わずして手渡す」とは、まさにこの事を指すのであろう。
  • 「銀と貂を与えて重い銭を負わせた」云々については、『実録』に詳細な記載はないが、天命四年二月から六月にかけて夫役一万五千人を興して界藩城を築き、五年十月には界藩の軍民を薩爾滸に移して築城し、六年閏二月には夫役に牛と塩を賜り「築城は労苦が大きい、財物を惜しむな」と諭した事跡がある。当時の夫役には土着でない者も少なくなかったはずだが、財物を惜しまず厚く与え、なお帰郷も許したのは、王道が人情に順うものであったことを示す。また天命三年、嘉穆瑚の地で稲が実った際、明総兵李如栢の夜襲で農夫七十人が殺された事例のように、辺境で明の将が欺詐横行する例は多く、毛文龍がとりわけ甚だしかったため、六年七月に鎮江・金州の民を内地・復州に移し、七年正月には広寧攻略後、河西四十余城堡の民を河東に移した。道周の言う「駆り立てて帰す」とは、実際には民を水火の苦しみから救い安住の地を選んで与えたものである。また貝勒らに遠大の計を諭し新降の民に築城させたのも、降民の多くが墾耕の恒産を持たなかったため、工事によって生計を支えたものであり、界藩・薩爾滸・遼陽(東京)の三大築城はいずれも恩沢を広めるものであった。喀爾喀部・烏嚕特部の諸貝勒台吉が相次いで帰順したのも、聖徳の感化によるものであり、遼陽陥落の際に城中が焚香し万歳を唱えて迎えたことも、仁心仁政の証左であって、道周が明臣でありながらこれを「兵威を用いずとも」と評したのも、故なきことではない。