皇清開國方略太祖髙皇帝 天命七年壬戍 1622年

明の広寧の攻略

  • 春正月甲寅、明の広寧を攻略した。太祖は族弟鐸弼(和洛噶善城貝勒索長阿の第四子龍敦の子)・貝和齊(武功郡王礼敦の子)・額駙蘇巴海(哈達万汗の孫、太祖の族弟済伯哩の妹を妻とした)に遼陽の守備を委ね、自ら軍を率いて出撃、遼河東の昌堡に至り、丙辰未明に渡河すると明の防河兵は逃走、前隊が西平堡まで追撃した。丁巳、大軍が城を包囲し城守副将羅一貴に降伏を勧めたが応じず、攻城の末に一貴以下一万をことごとく殲滅した。
  • 続いて広寧の援軍が迫るとの報を受け、我が軍は隊列を整える間もなく突撃し明総兵劉渠・祁秉忠・李秉誠、副将劉徴・鮑承先、参将黒雲鶴・麻承宗・祖大寿、遊撃羅万言・李茂春・張明先らの兵三万を破り、五十里追撃して平洋橋堡で劉渠・祁秉忠・劉徴・黒雲鶴・李茂春・張明先を戦死させ全軍を潰滅させた。李秉誠・鮑承先・祖大寿・羅万言のみが逃れた。
  • 敗兵が広寧城に逃げ込むと、巡撫王化貞は西平堡陥落の報を受け監軍道髙出らと山海関へ逃走、巡道髙邦佐は杏山駅で自縊した。広寧の守門遊撃孫得功以下七人が降伏を乞い、太祖は銀と信牌を与えて帰した。西興堡備禦朱世勲の中軍王志髙も同様に降を乞うた。太祖は諸将士の功を論じ俘獲を分配、己未、大軍が広寧に向かう途中、かつて明の千総となっていた我が国人石天柱と秀才郭肇基が「城の守官は皆逃げ、我らが城門を守っている」と出迎え、太祖は鞍馬と令旗を賜った。庚申、広寧城東の望昌岡に至ると、城内の紳士庶民は焚香・鼓楽・旗蓋をもって出迎え、太祖は巡撫公廨に入った。
  • その後も平洋橋・西興堡・錦州・鉄場・大凌河・錦安・右屯衛・団山・鎮寧・鎮遠・鎮安・鎮静堡・鎮辺・大清堡・大康堡・鎮武など四十余城の官員が相次いで降った。太祖は十日駐軍の後、山海関方面へ軍を進めたが、明経略熊廷弼・巡撫王化貞は沿道の村堡を焼き払って逃走、大軍は中左所(寧遠城西南)まで至って引き返し、広寧城に戻った。大貝勒代善・四貝勒は義州に赴き、抵抗した守備兵三千を斬って移民させた。

帰順した蒙古部長への恩賞

  • 二月壬午、帰順した蒙古部長を宴で労った。蒙古烏嚕特部貝勒明安・諤勒哲依図・索諾木ら、喀爾喀部貝勒錫爾呼納克らが三千余戸を率いて畜産とともに帰順し、太祖は広寧城で貂・虎・狐・貉・猞猁猻の裘、蟒衣・紬緞・布帛・金銀・田廬・僮僕・牛馬・糗糧・器具を賜り官を授け、「我が国は忠信を守り盗賊も詐偽もない、蒙古は念珠を持ち仏号を唱えながら欺詐横逆の風が絶えない、今日帰順したからには賢者は厚遇し無能な者も撫育する、悪心を萌さぬ限り」と諭した。癸未、太祖は遼陽に還り、諸貝勒に広寧の守備を任せ、河西の降伏した城堡の官民を河東へ移した。西平堡から逃げていた副将鮑承先もこの頃帰順した。

貝勒の合議政治と東京城の造営

  • 三月己亥、諸貝勒に「治国は才を恃んで独断すべきでない、一人の見識は衆人の智慮に及ばない。八人で八旗を分主し和碩貝勒として心を同じくして国を謀り、七人で一人の善言を助け、才徳ある者を選び朕の後継とせよ。行いが善くない貝勒は子弟の賢者に代えよ。事は独断せず衆議に諮れ」と諭した。同月、「遼陽城は年久しく傾き、東南に朝鮮、西北に蒙古がなお服さぬ以上、明討伐に専念すれば内憂を残す、堅城を築き分兵して守るべきだ」と諭し、貝勒大臣は労民を懸念したが、太祖は「今すでに明と戦っている以上中止できぬ、一時の労を惜しんで遠大の業を成し得ない、新たに降った民に築城させ房屋は各自建てさせよ」として、遼陽城東の太子河のほとりに新城(東京、遼陽城より八里)を築いて遷居した。