皇清開國方略太祖髙皇帝 天命元年丙辰 1616年

尊号奉呈と即位

  • 春正月壬申朔、周辺諸部の帰服が進む中、太祖は昼夜国政に励み、五日に一度朝を開いて天に香を焚き古来の嘉言や成敗興廃の由来を読み上げて国人を訓誡した。議政の五大臣が機密を議し、十大臣が庶務を分担、訴訟はまず理事大臣が聴断し議政大臣が再審した上で貝勒の衆議に付し、なお冤枉がないか本人を御前で詳しく問うなど、上下の情が通じ国は大いに治まった。道に落ちた物は必ず持ち主に返され、放牧の家畜も盗まれることがなかった。軍の隊伍は整然とし、功罪の賞罰は疎遠を問わず厳正であったため、将士は皆奮って命を尽くし、戦えば向かうところ敵なしであった。
  • こうして帝業が成ったことを受け、諸貝勒大臣は集議して尊号を奉呈することとし、丙辰年正月壬申朔、群臣は八旗ごとに整列し、太祖は御座に登った。侍衛阿敦・巴克什額爾徳尼が表文を進呈し宣読、太祖を「覆育列国英明皇帝」と尊称した。太祖は御座を降りて天に香を焚き、諸貝勒大臣とともに三跪九叩首の礼を行い、再び登座して諸貝勒は各旗ごとに慶賀の礼を行った。この年を天命元年と建元した。時に太祖は齢五十八であった。

治国の訓諭

  • 太祖は「上古の至治の世は君臣が心を同じくし公正誠実を旨とすれば天地の加護があった。天に私なく四時が順序を保ち、地に私なく万物が育つように、人君も私心なく修身すれば徳が明らかになり、私心なく斉家すれば九族が親睦し、私心なく治国すれば百姓が安んじる。これが治世の要である」と諭した。
  • また「賢臣は忠誠の心をもって国家を我が身のごとく見るべきで、忠誠かつ慈恵ならば恵みが行き渡り、忠誠かつ敏達ならば庶務が整い、忠誠かつ武勇ならば敵に勝てる。忠誠を欠けば才があっても事を誤る」と諭した。
  • さらに「君徳が明らかであれば賢臣は喜び、暗ければ賢臣は憂える。人君は諮詢を怠らず、臣下は隠さず諫言すべきで、事の起こる前に諫めるのが上策、事が定まった後に諫めるのは下策だが、諫めないよりはよい」と諭し、「人材は適材適所に用いるべきで、機密の任には慎重端正な者を、辞令の任には言語に通じた者を充てよ」と諭した。

明の辺境問題と使者抑留

  • 夏六月庚子朔、我が使者が明の広寧より帰還した。かねて明の辺民が毎年国境を越えて我が国の人参・木材・果蔬を盗掘し害を為していたため、太祖は大臣扈爾漢に「かつて明と石碑を建て白馬を刑して誓ったのはこうした侵擾を禁じるためであった。今、明の辺民が数々我が地を侵すなら、越境者を誅殺しても過ちではない」と諭し、扈爾漢は越境して盗掘する者五十余人を殺した。
  • 時に明は李維翰を広寧巡撫としており、太祖は綱古哩・方吉納を遣わして維翰に会わせたところ、維翰は二人と従者九人を捕らえて抑留し、「越境者は送還すべきで、なぜ殺したのか」と詰問した。太祖は「盟約には越境者を見て殺さねば殺さぬ者にまで累が及ぶとある。今なぜ前盟を顧みず強弁するのか」と応じたが、明側は「殺害者を引き渡し抵罪させねば事が多事になる」と要求を続けた。太祖はこれに応じず、獄中にあった葉赫の俘虜十人を撫順関で処刑して代わりとし、明は綱古哩・方吉納ら十一人を返還した。

薩哈連部への遠征

  • 秋九月甲午、薩哈連部征討軍が凱旋した。先立つ七月丁亥、太祖は大臣安費揚古・扈爾漢に兵二千を授けて東海の薩哈連部を討たせた。二臣は烏勒簡河に至り舟二百艘を造って水陸並進し、沿河南北三十六寨を取り、八月丁巳には黒竜江南岸に駐営した。
  • 例年九月まで結氷しないこの水域が、その日この営の近くだけ幅六十歩ほどの氷橋となったため、安費揚古・扈爾漢は「天の助けである」として渡河し薩哈連部十一寨を攻略した。帰路には氷橋がすでに解けていたが、西寄りに再び一道の氷が張り、渡り終えると氷は解け、九月になってまた通常通り結氷したという。その後、音達琿・塔庫喇喇路(別名使犬路)・諾囉路・錫喇忻路も招服して凱旋した。