皇清開國方略太祖髙皇帝 按語(甲寅年四月の明使応接に関する考証)

史論(臣等謹案)

  • 明臣黄道周の『博物典彙』は、甲寅年四月の出来事について次のように記す。癸丑年以後、建州が蜂蜜を貢がなくなったため、巡撫都御史郭光復が遼陽の材官蕭子玉を都督と偽称して派遣し理由を問わせた。建州主(太祖)は盛大な儀礼で迎えたが、実は蜂の不作で蜜が採れなかったに過ぎないと従容と答え、厚遇して帰した。別れ際、太祖は「お前は遼陽の無頼の蕭子玉であろう。都督を騙るとは。殺すこともできたが大国の恥辱を思って見逃す。巡撫に二度と詐りを働くなと伝えよ」と告げ、子玉は狼狽して逃げ帰り、巡撫は恥じて門を閉ざしたという。
  • 臣等が『実録』を謹んで見るに、明が使者を送った記事は複数あるが、甲寅年四月の条にのみ「明が備禦蕭伯芝を遣わし大臣と偽称し八人輿に乗り威勢を示し無礼な言辞で礼を強要した」ことが特筆され、太祖が「虚言恐喝に礼を尽くす要なし」として善言には婉言、不遜な言には正言で応じ、書を見ずに送り返したとある。黄道周の記す材官蕭子玉と『実録』の備禦蕭伯芝は、伝聞の違いにより同一人物か別人か明らかでないが、都督を偽称し儀礼を誇示した点、無礼な要求をした点は符合する。
  • 太祖は使者の偽りをすでに見抜きながらも隣国の使者として遇し、宴を設けて温言で送り出した後にその無頼を戒めた。「殺すこともできたが二度と詐りを働くな」との言葉は、智と仁を併せ持ち、婉言・正言のいずれも明人を心服させるものであったことを示す。
  • 翌年、明総兵張承蔭がまた通事董国蔭を遣わし柴河三岔撫安三路の田を要求し境界に碑を立てた際も、貝勒大臣は明討伐を望んだが、太祖は「事の機微をすでに見通している」「天の裁きは遠くない、しばらく待て」と諭した。黄道周が辺疆の事を「笑いものとなり侮りを招く」と嘆じたのは、まさにこうした事態を指すものであろう。