皇清開國方略太祖髙皇帝 乙卯年 1615年

明使の田地要求を拒む

  • 夏四月、明の広寧総兵張承蔭が国境外を巡邊し石碑を立てて境界とし、通事董国蔭を遣わして柴河・三岔・撫安三路の田の収穫を禁じ、住民を送り返すよう告げた。
  • 太祖は「代々の田廬を一朝にして棄てよというのは盟好を破棄する言葉に等しい。我が国は小国で受ける害も小さいが、大国たる貴国も無傷では済むまい。国の大小は畢竟天意による」と反論し、「毎城に一万の兵を屯するのは不可能で、千人程度なら我が捕虜にするだけだ」と述べた。董国蔭は「言い過ぎだ」として去った。
  • 太祖は群臣に「人は貴賤大小を問わず公正な心を持つべきで、力に任せて侵奪すれば天罰を招く。無事の国は徒に兵を興すべきでない」と諭した。

屯田の奨励

  • 葉赫がかつて我が国の聘した布揚古の妹を蒙古喀爾喀部貝勒の子莽古勒岱に嫁がせようとしたため、諸貝勒大臣は憤慨し急襲を主張した。太祖は「婚約破棄を怒って興兵するのは大事に非ず、この女は元来災いの種で哈達・輝発・烏拉の三国もこの女により争って滅んだ。今、明が葉赫に味方しこの女を蒙古に与えたのは、天が葉赫を滅ぼそうと我を怒らせているのだ。得ても不祥、他家に嫁いでも長続きしまい」として出兵を許さなかった。
  • 果たして葉赫がこの女を蒙古に嫁がせて一年足らずで滅んだ。諸貝勒大臣は「明が葉赫を助けたのだから明を討つべき」と重ねて求めたが、太祖は「天の裁きは遠くない、しばらく待て。明は天下の共主を称しながら是非を弁えず葉赫に加担している。今日義兵を挙げれば天は必ず助けるが、まだ国の蓄えが足りず、民を損なう恐れがある。今は撫民・辺備・農耕・貯穀を先務とすべきだ」と諭し、出兵しなかった。
  • 各牛录に十人・牛四頭を出させて曠土を屯田させ倉廩を積ませ、官十六員・筆帖式八員を新設して会計を掌らせた。

額赫庫掄の征討

  • 冬十一月、窩集部東の額赫庫掄の者が「そちらの国は勇猛というが、一戦交えてみよ」と挑発してきたため、太祖は兵二千を遣わして固納喀庫掄を招降しようとしたが服さず、三重の壕を越え柵を毀して攻城、八百人を斬り一万人を捕虜とし、五百戸を編戸として凱旋した。
  • 先立つ十月丁未、太祖が穆竒に出猟した際、瑞祥の光が現れ諸将と拝礼した。この月の出猟でも、太祖が雪の湿りを避けて衣を摘まみ歩いたのを見た侍衛布揚古・雅喀穆が私語したところ、太祖はこれを聞き「衣を惜しむのではなく、常に汝らに衣を賜うより、濡れて汚すより清潔を保つ方がよいと考えたまで。倹約は小事にも及ぼすべきで、汝らも見習うべきだ」と笑って答えた。

賢才登用の奨励

  • 太祖は「国の政務は多忙で賢才を要する。万能の人材は稀であり、各人の得意に応じて登用すべき」と諭し、また「賢才の推挙は家柄によらず、心術が正大な者を先に挙げよ」と命じた。

八旗軍制の制定

  • 三百人ごとに牛录額真を置く制度をさらに整え、五牛录ごとに甲喇額真、五甲喇ごとに固山額真、各固山に左右の梅勒額真を置いた。当初は黄・白・紅・藍の四旗のみであったが、この年さらに四旗を増設し、地の色に縁取りを加えて八旗とした。行軍時は地が広ければ八路に分かれ、狭ければ一路に合して進み、隊伍は乱れず、接戦時は堅甲長矛の前鋒と軽甲弓射の後衛が連携する制を定めた。