皇清開國方略 巻三編者按語(蒙格布禄記事の考証)
明側記録との異同
- 編者は黄道周『博物典彙』の記述(万暦二十八年、建州が蒙格布禄を襲い勢力を強めた経緯、蒙格布禄が忠順であったため他部に憎まれたこと、納林布禄との抗争で援軍を求めるも明が応じず、やむなく建州に援を求めたところ建州が乗じてこれを捕らえたとする説)を紹介する。
- 編者はこれに反論し、『実録』に基づけば、蒙格布禄はまず葉赫らと共謀して太祖の瑚布察寨・赫済格城を襲った張本人であり、その後の危機に際して質子を出して援軍を求めたにもかかわらず、太祖の二将を捕らえて援軍を殲滅しようと図った点で、その罪は納林布禄・拜音達哩にも増すとする。それでも太祖は蒙格布禄を殺さず、民を安んじたのであり、黄道周のいう「襲執」という表現は事実に反すると論じる。
- 人名表記の異同(蒙格布禄=猛骨孛羅、納林布禄=那林孛羅、扈拉瑚=忽刺虎、拜音達哩=灰扒伯答里)についても、旧文の当て字と本書の統一表記との対応を注記する。