皇清開國方略太祖髙皇帝 壬子年 1612年

布占泰との断交と征討開始

  • 烏拉貝勒布占泰はかつて修好を求めたが、その後盟約に背き、我が国属下の窩集部呼爾哈路をたびたび侵し、我が国が聘した葉赫貝勒布齋の娘を娶ろうとし、さらに嫁いだ我が国の公主を鳴鏑で射た。
  • 太祖は激怒し、秋九月癸丑、自ら軍を率いて烏拉を討った。庚申、黄蓋を張り鉦鼓を鳴らして烏拉河沿いを進撃すると、布占泰は河辺で迎撃したが、我が軍の威容を見た烏拉兵は戦意を失った。
  • 太祖は河岸を下って沿岸の五城を落とし、さらに金州城を取って布占泰の本拠に近い河岸西側に駐営した。

烏拉城の包囲と布占泰の哀訴

  • 冬十月辛酉朔、太祖は太牢を供えて天と纛を祭り出陣。東方に瑞祥の気を見て烏拉城北に三日間布陣した。布占泰は昼は出城して対峙し夜は入城して休んだ。
  • 諸貝勒は渡河しての攻撃を求めたが、太祖は「大国を一挙に取ろうとせず、まず属城を削り孤立させるべき」と諭し、六城を破却・焼却した上で富勒哈河渡口に移営した。
  • 布占泰は使者を送り哀願し、自ら六人の臣を率いて河中に跪いて許しを乞うた。太祖は馬を進め、水が馬腹に及ぶ所まで臨んで布占泰を厳しく叱責し、これまでの恩義(捕虜の助命、養育、三女の降嫁、七度の盟誓)に背いた罪を糾弾した。
  • 布占泰は「離間する者があった」と弁明し、臣下の拉布泰が軽率な発言をしたため太祖に叱られた。布占泰の弟喀爾喀瑪が赦しを乞い、太祖は子と大臣の子を人質に出すことを条件に和解し、五日駐留の後に撤兵した。烏拉河のイマフ山に木城を築き千人を残して守らせた。
  • 十二月、白気が烏拉国から宮殿の南を経て呼蘭哈達まで達する瑞祥が現れた。