皇清開國方略太祖髙皇帝 丁未年 1607年
葉赫との軋轢
- 癸卯年、太祖妃(孝慈高皇后)が重病となり生母に会いたいと望んだが、葉赫貝勒納林布禄はこれを拒み、代わりに僕を寄越しただけであった。太祖は「瑚布察寨襲撃・九国合兵の罪を悔いて盟いながら、以前結んだ婚約(代善への輝発婚)を破って蒙古に嫁がせ、今また母子の対面すら許さぬのは断交に等しい」と激怒した。
- 甲辰年(1604年)、太祖は葉赫を親征して璋城・阿竒蘭城を落とし、二千余人を捕虜とした。
輝発国の平定
- 輝発貝勒拜音達哩は一族の離反や葉赫の圧力に苦しみ、太祖に臣下の子を質に出して援軍を求めた。しかし納林布禄の甘言に乗って質子を取り返し、逆に自分の子を葉赫の人質に出すなど太祖への不誠実を重ねた。太祖の婚姻の申し出も拒否した末、丁未年八月に彗星が現れ輝発国滅亡の予兆とされたことも記される。太祖は同年九月、拜音達哩とその子を誅して輝発国を平定した。
- 輝発国の淵源(黒龍江岸尼瑪察部出身の星古礼に始まる系譜、輝発河畔での建国)も記される。