皇清開國方略太祖髙皇帝 癸巳年 1593年

葉赫の圧力と富勒佳齊の戦い

  • 葉赫貝勒納林布禄が使者を送り、満洲・呼倫(葉赫・哈達・烏拉・輝発)は言語を通じる同族なのだから土地を分与せよと要求。太祖は「土地は牛馬とは違う、割譲などできぬ」と一喝して退けた。
  • 葉赫使者図爾徳が「両国が戦えば我らはお前の地に入れるが、お前は我らの地に入れまい」と挑発。太祖は激怒し、明が父祖殺害の報いに与えた恩義すら忘れて大言を吐く葉赫を書面で叱責した。
  • 長白山の珠舎哩・訥殷二路が葉赫と結んで洞寨を襲撃した際、太祖は「水は低きに流れ火は高きに燃える、いずれ我が有となろう」と動じなかった。
  • 葉赫貝勒布斉・納林布禄が哈達・烏拉・輝発と合兵して瑚布察寨を襲うと、太祖は伏兵を設けつつ哈達国富勒佳齊寨を略し、追撃してきた哈達兵を単騎で応戦、蒙格布禄の馬を射倒すなどして撃退した。

古哷山の戦い(九部連合軍の撃破)

  • 葉赫・哈達・烏拉・輝発・科爾沁・錫伯・卦勒察・珠舎哩・訥殷の九部が三路に分かれ侵攻。太祖は物見武理堪の偵察(鴉の異変が凶兆として語られる)を経て敵情を把握し、赫済格城を攻めていた敵軍を古哷山で迎撃した。
  • 妃富察氏に「なぜ酣睡できるのか」と問われた太祖は「天命に背かなければ恐れることはない」と答えたという逸話、戦前に堂子で天に誓文を捧げた逸話が語られる。
  • 決戦では葉赫貝勒布斉が落馬したところを味方の武談に討たれ、これを見た納林布禄ら諸部は動揺して総崩れとなった。科爾沁貝勒明安は裸馬で逃走。太祖軍は追撃して大量の首級・馬匹・甲冑を得た。
  • 戦後、捕らえられた男が烏拉貝勒滿泰の弟布占泰であると判明。太祖は「生かす名声は殺す名声に勝る」として助命し、養った。

珠舎哩部・訥殷部の平定

  • 冬十月、葉赫に加担した珠舎哩部長裕楞額を討ち、寛大に扱って連れ帰り養った。
  • 閏十一月、同じく葉赫に与した訥殷部長藪穏色克什を三カ月の包囲の末に討った。