高士傳卷三 徐稚

出自と名声

  • 徐稚は字を孺子といい、豫章南昌の人である。若くして経学と行いによって南方随一と称された。桓帝の時、汝南の陳蕃が豫章太守となり、稚を朝廷に推薦した。これにより五度孝廉・賢良に挙げられたが、いずれも応じなかった。
  • 公府からの辟召が相次いだが赴かず、命に応えたことは一度もなかった。ただし推薦してくれた者が死ぬと、必ず自ら弔問に赴いた。

黄瓊への弔問

  • 太守の黄瓊もかつて稚を招聘した。稚が赴いた頃、瓊は死去し、江夏に葬られることとなった。稚はこれを聞くと、すぐに書物を背負って徒歩で豫章から三千余里を経て江夏の瓊の墓前に至り、酒を注いで哭泣した。
  • その後、公車から三度徴召されたが応じず、天寿を全うして没した。