出自と学問
- 贄恂は字を季直といい、伯陵の十二世の孫にあたる。礼と易に通じ、さらに五経を修めて諸子百家の言にも博く通じた。文章にも巧みで、その言論は清美であった。
- 渭水のほとりで教えを受けた弟子には、扶風の馬融、沛国の桓驎ら、遠方から集まった者が十数人いた。古今の学に通じながら性格は温厚で機敏、目下の者に問うことを恥じなかったため、学者たちはみな彼を宗と仰いだ。
隠棲と馬融との縁
- 恂はかつて先人の高潔さを慕い、南山の北側に隠棲した。当初、馬融が恂のもとで学んでいたとき、恂はその才を愛して娘を妻として与えた。融は後に果たして大儒となり、その文章は当代随一と称えられ、これによって人々は恂の人を見る目の確かさに服した。
- 永和年間、朝廷が名だたる儒者を広く求めた際、公卿は恂を推挙し、「行いは顔回・閔子騫に等しく、学問は董仲舒に比肩し、文章は司馬相如に並び、才は賈誼と同等で、実に宗廟を支えるにふさわしい重器であり、国の顧問とするべき人物である」と評した。しかしこれによって公車の徴召があっても恂は応じなかった。大将軍竇武が賢良に挙げたが、これにも就かなかった。
- 清らかな名声は世に知れ渡り、天寿を全うして没し、三輔の人々はその高潔さを讃えた。