高士傳卷三 矯慎

出自と導引の術

  • 矯慎は字を仲彦といい、扶風茂陵の人である。若くして赤松子・王子喬の導引の術を慕い、山谷に隠遁した。南郡太守の馬融、并州刺史の蘇章と同郷で同時代であったが、二人の清純さは慎に遠く及ばなかった。

吳蒼の書簡

  • 汝南の呉蒼は彼を大いに重んじ、その志を確かめようと書を送って言った。「黄老の教えでは、虚に乗じて安らぎ、身を隠して遠く逃れることに加えて、国を治め人を養う政(まつりごと)に応用する道もあると聞く。山に登って跡を絶つようなことは、その神妙さの証も、人が見て確かめる験もない。私は先生に従ってどちらの道が良いかを伺いたいが、いかがか。昔、伊尹は道を懐に秘めたまま堯舜のような君を待つことはしなかった。今はまさに天下が開け明らかな世である。巣父・許由は箕山で無為に過ごし、伯夷・叔斉は首陽山に入ったことを悔いたという。もしあなたが本当に龍に乗り鳳を操って雲間に遊べるほどの人であれば、それは狐や兎、燕や雀ごときが企てられることではない」と。
  • 慎はこれに答えなかった。七十歳を過ぎても、ついに妻を娶らなかった。

最期の逸話

  • 後に突然家に帰り、自ら死ぬ日を告げた。その日になると、果たしてその通り亡くなった。後に敦煌で慎を見たという者があり、前代の人々はこれを不思議がり、あるいは神仙になったのだという者もあった。

附伝:馬瑤

  • 慎と同郡の馬瑤は汧山に隠れ、兎を捕る罠かけを生業とした。その住む地は風俗が感化され、百姓は彼を称えて「馬牧先生」と号した。