高士傳卷三 梁鴻

出自と若き日

  • 梁鴻は字を伯鸞といい、扶風平陵の人である。乱世に生まれ、太学で学んだが、章句の解釈にはこだわらなかった。学業を終えると上林苑で豚を飼って暮らした。

火事の弁償と徳による感化

  • あるとき誤って火を出し、隣の家にまで燃え広がった。鴻は火を出した先を訪ね歩き、被害を尋ねて、すべて自分の豚で償った。持ち主はなお少ないと言うので、鴻は自ら身を寄せて働き、勤めを怠らなかった。
  • 近隣の古老たちは鴻が並みの人物でないと見て、揃って持ち主を責め、鴻を称えた。持ち主はそこで初めて彼を敬い、すべての豚を返した。鴻は受け取らずに立ち去った。

婚姻

  • 郷里に戻ると、その高い節義を慕う家々が娘を娶わせようとしたが、鴻はすべて断って娶らなかった。
  • 同県の孟氏に容貌の醜い娘がおり、相手を選び続けて嫁がなかった。両親が理由を問うと、娘は「梁伯鸞のような賢者を得たい」と言った。鴻はこれを聞いて娶った。
  • 嫁いで着飾って七日入っても、鴻は答えなかった。妻が下って理由を問うと、鴻は「私が求めるのは粗末な皮衣を着て共に深山に隠れられる人だ。今のお前は美しい衣を着て化粧をしている、これが私の望みか」と言った。妻は「あなたの志を試したまでです。私には隠居の服がございます」と答え、髪を椎髻に結い、粗末な布衣を着て、働く姿で現れた。鴻は大いに喜び、「これぞ真の梁鴻の妻だ、私によく仕えてくれるだろう」と言い、字を徳曜、名を孟光とした。

隠棲と各地への遷居

  • しばらくして共に霸陵山に入り、耕作と機織りを生業とし、詩書を詠み琴を弾いて楽しんだ。前代の高士を仰ぎ慕い、四皓以来二十四人のために頌を作った。
  • 東に関を出て京師を過ぎる際、『五噫の歌』を作った。粛宗(章帝)は鴻を捜させたが見つからなかった。
  • 姓名を運期耀、字を侯光と変え、妻子と斉魯の間に住んだ。しばらくしてまた去り、呉に移り、皋伯通の廊下に住み、人に雇われて米つきをした。帰るたびに妻が食事を用意し、膳を目の高さまで捧げて差し出した。伯通はこれを見て只者でないと察し、自宅に住まわせた。

晩年

  • 鴻はひそかに閉じこもって十余篇の書を著した。病に伏すと、主人に「昔、延陵の季子は嬴博の間に葬られ、郷里に帰らなかった。決して私の子に喪を郷里に持ち帰らせるな」と告げた。
  • 没すると、伯通らは呉の要離の墓のそばに葬る地を求めた。