國語晉の言行録(五)(晉語五)

臼季擧冀缺

  • 臼季(胥臣)が使者として旅する途中、冀の地に宿泊した。冀缺(冀芮の子、郤成子)が畑仕事をしており、その妻が食事を差し入れる際、夫婦は賓客に対するように互いを敬っていた。臼季はこれを見て問いただし、冀缺が冀芮の子であることを知りながらも、彼を連れ帰り、文公に「私は賢人を得ました、報告いたします」と申し出た。
  • 文公は「その父には罪があった、それでもよいのか」と問うたが、臼季は「国の良材であれば、前の悪を問わず取り立てるべきです。だからこそ舜は鯀を誅殺しながらも、その子禹を登用しました。これはあなたもご存じのことです。斉の桓公も自分を弓で射た賊であった管仲を重用しました」と答えた。
  • 公が「彼の賢さをどうして知り得たのか」と問うと、臼季は「彼が敬いを忘れない姿を見たからです。敬いとは徳を貫く姿勢であり、それをもって事に臨めば、成し遂げられないことはありません」と答えた。公は冀缺に会い、下軍の大夫に任じた(実際には後の襄公の代に取り立てられたが、父文公の意志を継いだものとしてここに記される)。

甯嬴氏論貌與言

  • 陽処父(晋の太傅)が衞へ聘問した帰り、甯の地を通り、宿屋の甯嬴氏に宿泊した。嬴氏は妻に「私は長年君子を探し求めていたが、今ようやく見つけた」と語り、陽処父に同行して旅を共にしようとしたが、山まで来たところで引き返してしまった。
  • 妻が「せっかく求めていた人を見つけたのに、なぜ従わなかったのですか」と尋ねると、嬴氏は「私は彼の容貌を見て心惹かれたが、彼の言葉を聞いて嫌気がさした。容貌は心情の外に現れる華であり、言葉は容貌の要である。心情が身に生じ、言葉は身の外に表れる文である。心情・言葉・容貌が一致してこそ人は行動すべきであり、一致しなければ隙が生じる。今、陽子の容貌は立派だが、その言葉は乏しく、実質が伴っていない。もし内実が伴わないのに外見だけ強くしていれば、いずれその本性が露呈するだろう。内と外がずれているということだ。もし内外が一致した善人であれば言葉はそれに応じて発せられ、信を示すものとなるはずだが、彼はそうではない、これでは言葉を軽々しく発しているにすぎない。言葉とは信を明らかにするもので、時機を見極めて慎重に発するべきものなのに、どうして軽々しく扱えようか。今、陽子の心情は表面的には理路整然としているが、それは容貌の欠点を覆い隠しているにすぎず、しかも剛直で自らの才能を過信し、仁義に基づかず人を犯す性質がある、これは怨みを集めるもとだ。私は彼から利を得る前に、その禍に巻き込まれることを恐れて、離れることにしたのだ」と答えた。
  • 一年後、賈季(狐射姑)の乱が起き、陽処父はこれに巻き込まれて死んだ(賈季は陽処父が自分の序列を変えたことを怨み、部下に暗殺させ、自らは狄へ亡命した)。

趙宣子論比與黨

  • 趙宣子(趙盾)が韓献子(韓厥)を靈公に推挙し、司馬(軍事担当の大夫)に任じさせた。河曲の戦いの際、趙盾の使者が自分の兵車で軍列を乱したところ、献子はこれを捕らえて処罰した。人々は「韓厥はもう長くないだろう、主君(趙盾)が朝に彼を引き立てたのに、夕方にはその使者の車を処罰するとは、誰が彼を安泰にできようか」と噂した。
  • 宣子は献子を召して礼を尽くし、「私が聞くところでは、君に仕える者は正しい道理に基づいて結束すべきであり、私的な徒党を組むべきではないという。忠信に基づいて事を推し進めることが結束であり、私情によって推すのが徒党である。軍事において法を犯した者を隠さず罰するのは正義の表れだ。私はあなたを君に推挙したが、あなたが職責を果たせないのではと恐れていた。推挙しておきながら職責を果たせなければ、これほどの徒党の弊害はない。あなたが君に仕えて徒党を組むようであれば、私はどうして政に携われようか、だから私はあなたを試したのだ。あなたは今後も励みなさい、この調子で行けば晋国を統率する者は、あなたをおいて他にいない」と述べた。宣子は大夫たちに「諸君は私を祝ってくれてよい、私が韓厥を推挙したのは正しかった、これで私は罪を免れたと知った」と語った。

趙宣子請師伐宋

  • 宋人が昭公を弑逆した。趙宣子は靈公に軍を出して宋を討つよう求めた。靈公は「これは晋国の急務ではない」と言ったが、宣子は「大きなものは天地であり、その次に君臣の秩序がある、それによって明確な教えが成り立つ。今、宋人が君主を弑逆したのは、天地の理と民の法に背く行為であり、天は必ずこれを誅するでしょう。晋は盟主でありながら天の罰を代行しなければ、その咎めが及ぶことを恐れます」と説いた。靈公はこれを許した。
  • 宣子は太廟で命令を発し、軍吏を召し、楽正(音楽の長)に三軍の鐘鼓を必ず備えるよう命じた。趙同(宣子の弟)が「国の一大事に、民を鎮撫することもせず鐘鼓の準備をするとはどういうことですか」と問うと、宣子は「大罪は討伐し、小罪は威嚇するのみである。奇襲や侵略は他国を陵ぐ行為であり、軽々しい行いは『襲』、鐘鼓を用いない行為は『侵』という。討伐には鐘鼓を備え、その罪を声高に示す。戦の際は錞于・丁寧(打楽器)を鳴らして民を戒める。奇襲・侵略は音を潜めて行う一時的な行為に過ぎない。今、宋人が君主を弑逆した罪はこれ以上ないほど重い、声高にこれを示してもなお足りぬほどだ。私が鐘鼓を備えるのは、正しい君臣の道を明らかにするためだ」と答えた。晋は諸侯に触れを出し、軍を整え鐘鼓を鳴らして宋へ向かった。

靈公使鉏麑殺趙宣子

  • 靈公は暴虐で(重税を課して壁を飾り、料理人を八つ裂きにするなど)、趙宣子はたびたび諫めた。公はこれを疎ましく思い、力士鉏麑を遣わして宣子を暗殺させようとした。麑が早朝に忍び込むと、寝室の扉は既に開いており、宣子は正装して朝廷へ出仕するため、早くから座って仮眠を取っていた(冠帯を解かずに眠ることを仮眠という)。
  • 麑は退出し、嘆息して「趙孟(宣子)は真に敬い深い人だ、朝早くから恭しく謹んでいる、恭敬を忘れない者は社稷の重鎮である。国の重鎮を殺せば不忠、命を受けながらこれを果たさなければ不信、いずれにせよ悪名を負うくらいなら、いっそ死んだ方がましだ」と述べ、庭の槐の木に頭を打ちつけて死んだ。
  • 靈公は趙盾を殺そうとしたが果たせなかった(魯宣公二年秋、靈公は盾に酒を飲ませ伏兵で襲おうとしたが、盾は気づいて逃げた)。趙穿(趙盾の従兄弟)は桃園で靈公を討ち、公子黒臀(文公の子、襄公の弟)を周から迎え入れて立てた。これが成公である。

范武子退朝告老

  • 郤献子(郤缺の子、克)が斉に聘問した際、斉の頃公は婦人に足の不自由な献子の様子を見物させ、笑わせた。郤献子は怒って帰国し、斉討伐を求めた。范武子(士会、晋の正卿)は朝廷から退出後、子の范文子(燮)に「他人の怒りに触れれば必ず害を受けるものだ。郤子の怒りは激しい、斉で晴らせなければ、必ず晋国内で発散するだろう。政を握らなければ、どうしてその怒りを晴らせようか、私は政権を彼に譲り、その怒りを収めさせよう、国内の事情で国外への対応を左右してはならない。お前は他の卿たちに従い、君命を謹んで奉じなさい」と述べ、政を辞した。

范武子杖文子

  • 范文子(燮)が朝廷から遅く退出した。父の武子が「なぜこんなに遅いのか」と問うと、文子は「秦の使者が朝廷で謎かけのような難解な問いを発し、大夫たちの誰も答えられませんでしたが、私は三つの問いを解きました」と答えた。武子は怒り、「大夫たちが答えられなかったのは能力がないからではなく、年長者に譲ったからだ、お前はまだ若造の身で、朝廷で三度も年長者の面目を潰したのか、私が晋国にいられなくなるのも遠くないだろう」と杖で打ち、冠の飾りと簪を折った。

郤獻子分謗

  • 靡笄の戦いで、韓献子が処罰として人を斬ろうとしていた(罪は本来赦されるべき程度のものであった)。郤献子は急いで馬車を走らせて助けようとしたが、着いた時には既に処刑が終わっていた。郤献子はその屍を晒すことを命じ、御者が「あなたは助けようとしていたのではないのですか」と問うと、献子は「せめて非難を分かち合わなければならないだろう」と答えた(=結果として処刑を止められなかった以上、その責任を韓厥一人に負わせず自分も引き受けるという意味)。こうした姿勢によって、二人の関係に亀裂が入ることはなかった。

張侯御郤獻子

  • 靡笄の戦いで郤献子は矢傷を負い、「私は息切れがひどい」と弱音を吐いた。御者の張侯(解張)は「三軍の心はこの車にかかっています、兵たちの耳目はこの車の旗と太鼓に向けられています。車が退く様子を見せず、太鼓が退く音を鳴らさなければ、軍事は成り立ちます。あなたはこれを堪え忍んでください、弱音を吐いてはなりません。廟で命を受け、社で祭肉を受けた以上、甲冑を身にまとい死力を尽くすのが戦の常道です。この痛みは死ぬほどのものではありません、ただ気力を削ぐだけのことです」と励ました。そして左手で手綱をまとめて持ち、右手で太鼓を叩き続けた。馬が暴走して止まらなくなると、三軍もこれに従って進撃し、斉軍は大敗した。晋軍はこれを追撃し、華不注山を三周するほど追い詰めた。

師勝而范文子後入

  • 靡笄の戦いに晋軍が勝利して帰還した際、范文子は最後に入城した。武子(父)は「燮よ、お前は私がどれほどお前の帰りを待っていたか分かっているのか」と問うた(戦は凶事であり、文子が遅く戻ったことを気に病んでいたのである)。文子は「この戦は郤子の戦です、郤子が斉討伐を求め、自ら元帥となりました。その功績は立派なものです。もし私が先に入城すれば、国人の耳目が私に集まってしまうのではと恐れ、あえて控えたのです」と答えた。武子は「これで私も咎めを免れたと分かった」と述べた。

郤獻子等各推功於上

  • 靡笄の戦いの後、郤献子が謁見すると、公は「これはお前の功績だ」と述べた。献子は「私は君命によって三軍の兵に命じたにすぎません、三軍の兵が命に従ってくれたからこそです、私に何の功がありましょうか」と答えた。范文子が謁見すると、公は同様に「お前の功績だ」と述べたが、文子は「私は中軍から命を受けて上軍の兵に伝えたにすぎません、上軍の兵が命に従ったからです、私に何の功がありましょうか」と答えた。欒武子(欒書)が謁見した際も同様に、「私は上軍から命を受けて下軍の兵に伝えたにすぎません、下軍の兵が命に従ったからです、私に何の功がありましょうか」と答えた。

苗賁皇謂郤獻子爲不知禮

  • 靡笄の戦いの後、斉侯(頃公)は晋に朝見に訪れた際、郤献子は敗戦国の君主から受けるような過度な献上の礼を斉侯に求めた(本来は完全に国を滅ぼされた君主に対してのみ用いる礼であり、斉は敗れたとはいえ頃公は捕虜になったわけではなかった)。それゆえ苗賁皇は郤克を礼を知らない者だと評した。
  • 献子は「我が君は私(克)を遣わし、粗末な礼ながらもあなたを辱めた埋め合わせとして、これをあなたの執政の方々に献上し、私を笑った婦人へのお詫びとしたい」と述べた。苗棼皇(賁皇)は「郤子は勇ましいが礼を知らない、自分の功を誇って一国の君主を辱めるとは、彼の命運もそう長くはないだろう」と評した。

車者論梁山崩

  • 梁山(晋の名山)が崩れた際、駅伝の使者を遣わして大夫伯宗を召した。伯宗は道を塞いでいた牛車の前で立ち止まり、道を空けるよう命じた。牛車の主が「駅伝は急ぎのはず、私が道を空けるまで待てば、かえって遅くなります、脇道を通った方が良いでしょう」と答えると、伯宗は喜んでその者の身元を尋ね、「絳の人です」と答えた。
  • 伯宗が「何か知っていることはあるか」と尋ねると、その者は「梁山が崩れたので、駅伝で伯宗を召しているのです」と答えた。伯宗が「それでどうすればよいと思うか」と問うと、「山は土が朽ちて崩れるものです、それ以上何がありましょうか」と答えた(政治の失敗を直接指摘せず、遠回しに「朽ちた土」と言うことで謙遜を示したもの)。
  • その者は続けて「国は山川を主宰する存在であり、それゆえ川が涸れ山が崩れれば、君主は喪服に着替え仮の宿に身を移し、飾りのない車に乗り、音楽をやめ、簡策の文をもって天に告げ、国中で三日間哭礼を行い、神への礼を尽くします。伯宗殿にできることも、これと同じことだけでしょう、それ以上何ができましょうか」と述べた。伯宗はその者の名を尋ねたが答えず、面会を求めても許されなかった。伯宗は絳に着いてから、この者の言葉を公に報告し、公はその通りに実行した。

伯宗妻謂民不戴其上難必及

  • 伯宗が朝廷から喜色満面で帰宅した。妻が「今日はご機嫌ですね、何かあったのですか」と尋ねると、伯宗は「朝廷で発言したところ、大夫たちが皆、私の知恵は陽子(陽処父)に似ていると褒めてくれた」と答えた。
  • 妻は「陽子は華やかだが実がなく、言葉ばかりで謀がない人でした、だからこそ身に禍が及んだのです、あなたは何を喜んでいるのですか」と諭した。伯宗は「これから大夫たちを酒でもてなして語り合うつもりだ、試しに聞いてみるといい」と述べた。
  • 酒宴の後、妻は「大夫たちは誰もあなたに及ばないでしょう。しかし民が優れた者を上に戴かなくなって久しい、あなたにも必ず難が及ぶでしょう、早く息子の伯州犁を守ってくれる人物を探すべきです」と忠告した。伯宗はこれに従い、士畢陽という人物を見つけた。