曹劌問戰
- 長勺の戦いに先立ち、曹劌が魯の莊公に開戦の理由を問うた。莊公は「衣食は民に惜しまず恵み与え、犠牲・玉帛も神に惜しまず捧げてきた」と答える。
- 曹劌は「恵みは根本(民に利を施すこと)を尽くしてこそ民が心を寄せ、民が和してこそ神が福を降す。徳を布いて政事を公平にし、君子は治めることに、小人は力を尽くすことに努め、時節を違えず財を無駄遣いしなければ、財も尽きず皆で祭祀を共にできる。それゆえ民は喜んで用に応じ、求める福も豊かに得られる。しかし今、恵みは戦を前にした小さな施しにすぎず、祭祀もあなた一人の敬いにとどまっている。小さな施しは行き渡らず、一人の敬いだけでは神は満足しない。これで戦えるだろうか」と諭した。
- 莊公が「訴訟を裁く際は、詳しくは分からずとも必ず真心をもって判断してきた」と言うと、曹劌は「それならばよい。誠に真心をもって民のことを図るならば、たとえ知恵が及ばずとも道に至るはずだ」と答え、戦いを認めた。
曹劌諫莊公如齊觀社
- 莊公が斉に赴き、社の祭祀(軍事演習を兼ねた催し)を見物しようとした。曹劌は「不可」と諫める。礼とは民を正すためのものであり、先王は諸侯に五年に四度の朝聘と一度の相朝を定め、朝会の終わりには礼を講じて爵位の順序・長幼の序・上下の規範・財用の節度を正させた。その間に怠りが生じる余地はない。
- しかし斉は太公望の法を捨て、社の祭祀にかこつけて民を観兵に集めている。これは本来の目的ではなく、君主がわざわざ出向いて見物すれば、民に何を教えることになるのか。社の祭祀は本来、春分に農事を助け、冬に収穫を祭って農夫を労うためのものであり、大勢の見世物として観るものではない。
- 天子は上帝を祀り、諸侯はこれに会して政命を受ける。諸侯は先王・先公を祀り、卿大夫がこれを助けて職務を受ける。諸侯同士が互いの祭祀に集まって見物し合うということは聞いたことがなく、しかもこの祭祀自体、礼法に則ったものでもない。君主の行動は必ず記録されるものであり、不法な行いを記録されては後世に何を示すのか、と諫めたが、莊公は聞き入れず斉に赴いた。
匠師慶諫莊公丹楹刻桷
- 莊公が桓公廟の柱を朱に塗り、垂木に彫刻を施した。斉から哀姜を妻に迎えるにあたり、廟にこれを見せる際に華美に飾ろうとしたのである。
- 匠師慶(禦孫)は「聖王で最初に封じられた者(湯・武王・周公・太公)は、後世が悪に陥らぬよう法を遺し、その令名を代々見習わせることで長く国を保ってきた。今、先君(桓公)は倹約であったのに、あなたは奢侈に走り、先君の美徳を損なうことになる」と諫めた。
- 莊公が「自分たちはこれを美しくしたいだけだ」と答えると、慶は「あなたにとって益もなく、先君の美徳を損なうだけです。やめるべきです」と重ねて諫めたが、莊公は聞き入れなかった。
夏父展諫宗婦覿哀姜用幣
- 哀姜が魯に到着すると、莊公は大夫と宗族の婦人たちに、大夫と同様の礼物(幣)をもって哀姜に謁見させようとした。
- 宗伯の夏父展は「これは前例にありません」と言う。莊公が「君が行えばそれが前例になる」と言うと、展は「君の行いが礼にかなっていれば前例とされますが、外れていればその誤りもまた記録されます。私は役人として、この誤りが後に記録されることを恐れ、あえて申し上げます。婦人の礼物は棗・栗にとどめ、これによって敬意を示すのが本来の礼です。男子は玉・帛・禽・鳥をもって身分を明らかにします。今、婦人が幣(男子の礼物)を執れば、男女の区別がなくなってしまいます。男女の区別は国の大切な規範であり、なくしてはなりません」と諫めたが、莊公は聞き入れなかった。
臧文仲如齊告糴
- 魯が飢饉に見舞われた際、大夫臧文仲は莊公に「四隣との援助関係を築き、諸侯との信を結び、婚姻や盟誓によってこれを強めるのは、まさに国の艱難に備えるためである。名器(鐘鼎)を鋳造し宝財を蓄えるのも、民の困窮に備えるためである。今、国は困窮している。なぜ名器を用いて斉に穀物を求めないのか」と進言した。
- 莊公が「誰を遣わすか」と問うと、文仲は「飢饉の際に卿が穀物を求めに出向くのは古の制度です。私が卿としてその任に当たりましょう」と申し出て、斉へ赴いた。
- 従者が「君はあなたに命じていないのに、自ら望んで行くのは、都合の良い役目を選んでいるだけではないか」と言うと、文仲は「賢者は国の急務に走り、平時の仕事は他に譲るものだ。官にある者は事に臨んで難を避けず、地位ある者は民の患いを憂うるからこそ、国に不和が生じない。今、私が斉に行かないのは、まさに急務を避けることになる」と答えた。
- 文仲は鬯圭と玉磬を携えて斉に赴き、「天災が我が国に及び、飢饉が重なり、民は衰弱し尽きようとしています。周公・太公が定めた祭祀の務めを絶やしてしまうことを深く恐れています。国の職貢を果たせず罪を得ることを恐れ、厚くはない先君伝来の器を差し出し、滞っている穀物(久しく蓄えて朽ちかけているもの)を融通していただき、我が国を救ってこの職務を果たせるようにしていただきたい。そうすれば私どもだけでなく、周公・太公や諸霊もまた末永く享受されることでしょう」と訴えた。斉人は玉を返還し、穀物を分け与えた。
展禽使乙喜以膏沐犒師
- 斉の孝公が魯を攻めてきた(魯の僖公が斉に叛き、衞・莒と洮・向で盟約を結んだことを咎めたもの)。臧文仲は言葉で謝罪しようとしたが、うまい弁が思いつかず、大夫展禽(柳下惠)に相談した。
- 展禽は「小国が大国に仕え乱を防ぐという話は聞くが、弁舌でどうにかするという話は聞かない。もし小国のくせに高慢な態度を取って大国を怒らせれば、災いは既に自ら招いたことになる。言葉でどうなろうか」と述べた。文仲が「国は危急である。何であれ有効な手段があれば使わない手はない、あなたの弁舌によって賄賂を贈ることは可能か」と尋ねた。
- 展禽は乙喜(展喜)を遣わし、あえて贅沢な化粧品(膏沐)程度の簡素な品で斉軍を労わせ、賄賂によって免れるのではなく道義によって斉を服させようとした。乙喜は「我が君は不才で国境の守りを十分に果たせず、あなた様を大いに怒らせてしまい、あえて軍を労わせていただきます」と述べた。
- 斉侯が「魯は恐れているか」と問うと、乙喜は「小人は恐れていますが、君子は恐れていません」と答えた。斉侯が「魯の蔵は磬を懸けたように空っぽで、野には青草もない、何を頼みに恐れないのか」と問うと、乙喜は「二人の先君(周公と太公)の遺した約束を頼みにしています。かつて成王は周公と太公に『あなた方は周室の股肱として先王を支えよ』と命じ、土地を賜り、犠牲を捧げて盟い、子孫代々互いに害さぬことを誓わせました。今、君が我が国の罪を討ちにいらしたのも、道理を聞き入れれば赦し、決して社稷を滅ぼすことはないはずです。まさか先王の命を捨てて土地を貪ることなどありましょうか。それでは諸侯を治める資格を失うことになります。これを頼みに恐れていないのです」と答えた。斉侯は和議を許して兵を引いた。
臧文仲說僖公請免衞成公
- 温の会盟で、晋の文公は衞の成公を捕らえて周に引き渡し、医者に鴆毒を盛らせたが死ななかった。医者も罰せられなかった(毒殺を企てたことを公にしたくなかったため)。
- 臧文仲は僖公に「衞君にはほとんど罪がないでしょう。刑罰には五段階があり、隠すべきものではない(=隠す=毒殺は正式な刑ではない)。大刑は甲兵をもって行い、次は斧鉞、中刑は刀鋸、次に鑽笮、軽い刑は鞭扑によって民を戒める。大きな刑は野で、小さな刑は市朝で行われ、死刑も身分に応じて朝や市に晒される。この五刑と三箇所は隠されるべきものではない。今、晋人は衞侯を毒殺しようとして死なせられず、使者(医者)も咎めなかった。これは殺そうとしたことを隠しているのだ。もし諸侯からの助命の要請があれば、必ず赦されるはずだ。私が聞くところでは、同じ地位の者同士は互いに憂いを共にするからこそ親しみが保たれる。諸侯の患難は諸侯が助け合うものであり、それが民を教え導くことになる。どうか衞君の助命を願い出て、諸侯への親愛を示すと同時に、晋侯の心を動かしてはいかがでしょうか。晋は新たに覇者となったばかりで、これにより『魯は親を見捨てない、それゆえ悪くは扱えない』と評価されるでしょう」と進言した。
- 僖公は喜び、玉二十瑴を贈って衞侯の助命に成功した。以後、晋は魯への聘問を他の諸侯より一段厚くもてなし、その義を重んじた。爵位が同じ諸侯でも、贈答の礼はより厚くした。衞侯はこの経緯を聞き、臧文仲に賄賂を贈ろうとしたが、文仲は「外臣の言葉は国境を越えず、我が君に及ぶものではありません」と辞退した。
臧文仲請賞重館人
- 晋の文公は曹の地を削って諸侯に分け与えた(無礼を働いた曹を討ち、その地を分配した)。僖公は臧文仲を使者として遣わし、重の宿駅に宿泊した際、宿駅の役人が「晋は覇者となったばかりで諸侯を固めようとしており、罪ある曹の地を分けているのです。諸侯は皆先を争って晋に親しもうとするでしょう。魯の序列は高く、早く行けば有利です。急がねば手遅れになりましょう」と進言した。
- 文仲はこれに従い、諸侯の中でも最も多くの土地を得ることができた。帰国後、復命に際し「これほど多くの土地が得られたのは、重の宿駅の役人の助言によるものです。『善行が明らかであれば身分が低くとも賞されるべきであり、悪行の兆しがあれば身分が高くとも罰されるべきだ』と聞きます。彼の一言で国境が大きく広がりました、どうか賞していただきたい」と願い出て、その者は大夫に取り立てられた。
展禽論祭爰居非政之宜
- 海鳥の「爰居」が魯の東門の外に三日間とどまったため、臧文仲は国人にこれを祭らせた(神と勘違いしたのである)。
- 展禽(柳下惠)は「臧孫(文仲)の政治は迂闊だ」と批判する。祭祀は国の大事であり、政治の完成そのものであるからこそ、祭祀の制度は慎重に定めるべき国の基本法であり、理由もなく祭祀の対象を増やすのは政治として適切でない、と述べる。
- 聖王が定めた祭祀の対象は、①民のために法を施した者(五帝、殷の契、周の文王)、②職務のために命を捧げた者(殷の冥、周の棄)、③労苦をもって国を安定させた者(虞の幕、夏の杼、殷の上甲微、周の高圉・大王)、④大災を防いだ者(夏の禹)、⑤大患を防ぎ止めた者(殷の湯、周の武王)であり、これ以外は祭祀の対象とはならない、と展禽は述べる。
- 続けて、烈山氏の子・柱が百穀百蔬を植えた功で后稷(穀物の神)として祀られ、夏の禹の代に周の棄がその役を継いだこと、共工氏の子・后土が九州の土地を平定した功で社(土地の神)として祀られたこと、黄帝・顓頊・帝嚳・堯・舜・鯀・禹・契・冥・湯・稷・文王・武王がそれぞれの功績によって歴代祀られてきたことを詳しく述べる。虞・夏・商・周それぞれの禘・郊・祖・宗の祭祀対象も異なり、幕・杼・上甲微・高圉と大王のような「報」(先祖の徳を継いだ功による特別な祭祀)の対象も述べられる。禘・郊・祖・宗・報のこの五つが、国の正しい祭祀の制度である、とする。
- これに加え、社稷・山川の神々や前代の賢人(民に功徳のあった者)、天の三辰(日月星)、地の五行、九州の名山川沢も祭祀の対象となるが、これ以外は祭祀の制度に含まれない。
- 今、海鳥が来ただけで理由も分からず祭ったのは、仁でも智でもない。仁者は功績の有無を論じ、智者は物事の本質を見極める。功のないものを祀るのは仁ではなく、理由も分からず調べもしないのは智ではない。今年は海に災いがあるのではないか、川や海の鳥獣は常に災いを避ける術を知っているものだから、と展禽は述べた。
- 果たしてその年、海は大風に見舞われ、冬は異常に暖かかった。文仲はこれを聞き「まことに私の過ちであった、柳下季(展禽)の言葉は見習うべきだ」と認め、この件を三卿の記録として書き残させた。
文公欲弛孟文子與郈敬子之宅
- 文公が孟文子(伯穀)の邸宅を取り壊そうとし、代わりに郊外の広い土地を与えようとした。孟文子は「地位は政の基盤であり、標識・車服・住まい・俸禄はそれぞれ地位を表すものです。君はこの五つを議して政を立て、みだりに変えるものではありません。今、有司が私の標識や車服を変えよと命じ、住まいを『広い土地の利益になる』として変えようとしていますが、標識は君命に朝夕仕えるためのものです。先臣の役職と車服を継いだ私が、利益のために住まいを変えれば、それは君命を辱めることになります。この命令には従えません。もし私に罪があるというなら、俸禄と車服を返上し、官を辞して、里の宰の命ずるままに移りましょう」と答え、拒んだ。
- 文公はこれを取りやめた。臧文仲はこれを聞いて「孟孫はよく職を守っている、これで父穆伯(不行跡で斉に出奔し客死した)の悪評を覆い、その後嗣を魯で保つことができるだろう」と評した。
- 文公は郈敬子(敬伯同)の邸宅についても同様の提案をした。敬子は「先臣惠伯は司里の命によりこの邸宅を賜り、代々の祭祀で君から賜る胙肉や、使者として出入りする際の礼物を扱う場所として定められた由緒ある住まいです。今、外に移せと命じられるのは、この由緒に背くのではないでしょうか。もし罪があるというなら、司徒の定める順序に従って移らせていただきます」と答えた。文公はこれも取りやめた。
夏父弗忌改昭穆之常
- 夏父弗忌が宗伯となり、太廟の合祀の際、僖公(閔公の兄で、閔公の後を継いだ)を閔公より上位に昇格させようとした。宗伯の属官が「これは昭穆の順序に反します」と異議を唱えたが、弗忌は「私が宗伯である以上、明徳のある者を昭とし、それに続く者を穆とするのだ、決まりなどない」と押し切ろうとした。
- 属官は「宗廟の昭穆は世代の長幼と血筋の親疎の順序を示すものであり、祭祀とは孝を明らかにするものです。歴代の工(楽師)・史(太史)はその世次を記録し、宗伯・太祝はその位を守ってきました。今、僖公を明徳とみなして閔公より上に昇格させれば、それは父祖より先に子孫を敬うことになります。契から湯まで、后稷から文王・武王まで、殷や周の合祀でも決して順序を越えたことはありませんでした。魯が殷や周に及ばぬのに、この常道を改めるのはよろしくないのではありませんか」と諫めたが、弗忌は聞き入れず、僖公を昇格させた。
- 展禽は「夏父弗忌には必ず禍がある。宗伯の属官の言葉は道理にかなっており、僖公にはまだそれほどの明徳もない。道理に背くのは不祥、逆の順序で民を導くのも不祥、神の序列をみだりに変えるのも不祥、明徳もないのに昇格させるのも不祥である。神への道に二つ、人への道に二つ、あわせて四つの過ちを犯していて、禍を免れられようか」と述べた。侍者が「その禍とは何でしょうか、刑罰でしょうか、それとも早死にでしょうか」と問うと、展禽は「まだ分からない。もし血気強健であれば長寿と寵愛を得たまま生を終えるかもしれないが、それでも禍を免れたとは言えないだろう」と答えた。果たして弗忌が没して埋葬された後、火が出て煙が天まで昇った(棺槨が焼けた)。
里革更書逐莒太子僕
- 莒の太子僕が父の紀公を弑逆した(紀公が僕とその弟季𬽲をもうけたが、僕を廃して季𬽲を愛したため、僕が反逆したのである)。僕は宝玉を持って魯に亡命してきた。
- 宣公は書記官に命じ、季文子に「莒の太子は私(魯)のために躊躇なく君主を殺し、宝物を持って来た。私への愛情が深いということだ。彼に邑を与えよ、今日中に必ず与えよ」との命令書を作らせた。
- 太史の里革はこの命令書を見て、書き換えた。「莒の太子は君主を殺してその宝を盗んで来た。行き場を失ってなお身の安全を図ろうとするとは。彼を東夷の地に追放せよ、今日中に必ず実行せよ」という内容である。
- 翌日、有司が復命すると、宣公は違いを問い詰め、里革が書き換えたことが判明した。宣公は里革を捕らえて「君命に背いたこと、聞いているか」と問うた。里革は「臣は死を賭してこの筆を執りました、これほど明白なことがありましょうか。『法を破る者は賊であり、それを匿う者は隠匿であり、宝を盗む者は内乱者であり、内乱の財を用いる者は姦である』と聞いております。君を姦を匿う者にするわけにはまいりません。君命に背いた私も、罰されて当然です」と答えた。宣公は「まことに私が貪欲であった、あなたの罪ではない」と言い、里革を赦した。
里革斷宣公罟而棄之
- 宣公が夏に泗水の淵に網を沈めて魚を取ろうとした。里革はその網を切って捨て、「古来、大寒が過ぎ、冬眠の虫が動き出す頃、水を司る官が網や筌を用意し、大魚や川の獲物を取り、これを宗廟に供え、国中に分け与えて陽気の巡りを助けるのです。鳥獣が孕み、水中の生き物が成長する頃には、獣を司る官が罠や網を禁じ、代わりに魚や鼈を刺し取って夏の備えとし、生育を助けます。鳥獣が成長し、水中の生き物が孕む頃には、水を司る官が小さな網や落とし穴を禁じ、大きな獲物のみを宗廟や台所のために取り、魚や鼈を育てさせます。山では若芽を切らず、沢では未熟な草木を刈らず、魚は稚魚を、獣は幼獣を、鳥は雛や卵を取らず、虫は蟻の子や幼虫を取らない、これが万物を繁殖させる古の教えです。今、魚がまさに産卵しようとしているのに、成長を待たず網を打つのは、限りなく貪ることに他なりません」と諫めた。
- 宣公はこれを聞き「私の過ちを里革が正してくれた、これは実によい網だ、私に法を教えてくれた」と述べ、有司に命じてこの網を保管させ、「これを見るたび里革の言葉を忘れないようにしよう」と語った。楽師の存はこれを聞き「網を保管するより、里革をそばに置く方が忘れずに済むでしょう」と述べた。
子叔聲伯辭邑
- 子叔聲伯(公孫嬰齊)が晋に赴き、季文子の助命を謝すため晋の郤犫(苦成叔)を訪ねた(叔孫僑如の讒言で晋に捕らえられた季文子を助けるためであった。郤犫の妻は聲伯の異父妹であった)。郤犫は聲伯に邑を与えようとしたが、聲伯はこれを受けなかった。
- 帰国後、鮑国(鮑文子)が「なぜ苦成叔の邑を辞退したのか、本当に謙譲したかったのか、それとも受けるべきでないと分かっていたからか」と尋ねると、聲伯は「棟木が太くなければ重い屋根を支えられないと聞く。重いものに国以上のものはなく、それを支える棟木は徳に他ならない。苦成叔(郤犫)の家は、晋・魯の両国にまたがる重さを負おうとしているが、大きな徳を備えていない。彼の家が存続するのは長くはあるまい」と答えた。
- 続けて「郤氏には三つの滅びの兆しがある。徳が薄いのに寵愛が過ぎること、地位が低いのに国政を専断しようとすること、大した功もないのに大きな俸禄を望むこと、これらはすべて怨みの的となる。しかも君主(厲公)は驕慢で寵臣が多く、楚に勝って帰れば新たな寵臣を大夫に取り立てるだろう。民の怨みに乗じなければ旧臣を退けられず、その怨みは大きい。これで三つの怨みの府(蓄積)を抱えているのだから、自らの身すら定まらぬというのに、どうして人に邑を与える余裕があろうか」と述べた。
- 鮑国は「私はあなたほどの信念はないが、鮑氏に禍の兆しがあっても私には対処できない。あなたは遠くを見据えて邑を辞退したのだから、必ず長く安泰でしょう」と応じた。
里革論君之過
- 晋人が厲公を殺したとの報が届いた際、成公が朝廷にいる中で「臣が君を殺すとは、誰の過ちか」と問うと、大夫たちは答えなかった。里革は「君の過ちです」と答える。
- 「君主たる者はその威が大きいものです。威を失って殺されるに至るのは、それだけ過ちを重ねたということです。君主は民を治め邪を正す者であるのに、もし私心に流されて民のことを顧みなければ、民の間に生じる悪も察知できず、邪をもって民に臨めば、民は陥っても救われません。善を用いても専らにしなければ民を動かせず、ついには滅びても顧みられなくなる、それではどうして君主でいられましょうか。桀は南巢に追われ、紂は殷の都で斃れ、厲王は彘に流され、幽王は戲の地で滅ぼされました。皆、威を失い過ちを重ねた末路です。君主とは民にとって川や沢のようなものであり、民はそれに従って流れます。美悪はすべて君主次第であり、民に何ができましょうか」と論じた。
季文子論妾馬
- 季文子は宣公・成公の二代にわたり宰相を務めながら、妾に絹を着せず、馬に穀物を食わせなかった。仲孫它(子服它)が「あなたは魯の上卿として二君に仕えながら、妾に絹も着せず馬にも穀物を与えないのは、人々にけちだと思われ、国の見栄えを損なうのではないですか」と諫めた。
- 文子は「私もそうしたいと思う時もある。しかし国人を見れば、父兄でさえ粗末な食事と衣服で暮らす者が多い。それなのに私だけが妾や馬を贅沢にするのは、民を治める者としてふさわしくない。徳による栄誉こそ国の誉れであり、妾や馬の贅沢が国の誉れになるとは聞いたことがない」と答えた。
- 文子はこの話を父の孟獻子(仲孫蔑)に伝えると、獻子は諫めた仲孫它を七日間拘禁した。以後、仲孫它の妾の衣は粗末な布にとどめ、馬の飼料も雑草にとどめた。文子はこれを聞き「過ちを改められる者は民の模範である」と評し、仲孫它を上大夫に取り立てた。