叔孫穆子聘於晉
- 叔孫穆子(豹)が晋に聘問した際、晋の悼公は饗宴でもてなし、《肆夏》《文王》の各三篇を演奏しても穆子は拝礼せず、《鹿鳴》の三篇に至ってようやく三度拝礼した。晋侯は行人(使者担当官)を遣わして「大きな礼(肆夏・文王)を差し置いて、細やかな礼(鹿鳴)にだけ礼を返すのはなぜか」と問わせた。
- 穆子は答える。「肆夏(樊・遏・渠)は天子が諸侯の長を饗する際の楽であり、《文王》《大明》《綿》は両君(対等な国同士)が相見える際の楽で、いずれも先王の令徳を讃え友好を結ぶためのものです。これらは私のような使者が拝聴するにふさわしいものではなく、楽人が稽古のついでに演奏したものと考え、あえて拝礼しませんでした。」
- 「一方、伶人が簫と歌で奏でた《鹿鳴》の三篇は、まさに君が使者である私に賜られたものであり、拝礼せずにいられましょうか。《鹿鳴》は先君同士の友好を嘉する歌、《四牡》は使者の労苦を表彰する歌、《皇皇者華》は『諏(相談)・謀(計画)・度(是非の判断)・詢(近親への相談)は必ず忠信の人に問うべし』と使者を教え諭す歌です。これらすべてに深い意味が込められており、大礼に加えてこの六つの徳(教えの内容)まで賜ったのですから、なおさら拝礼せずにはいられません」と述べた。
叔孫穆子諫季武子爲三軍
- 季武子(季孫夙)が魯の軍を三軍に拡充しようとした(自らの権勢を強めるため)。叔孫穆子は「不可」と諫める。
- 天子は六軍を自ら王卿士の公が率いて不徳の国を征伐し、大国の君主(元侯)は三軍を卿に率いさせて天子に仕え、次国の諸侯は卿はあっても常備軍は持たず、その武衛の士を率いて大国を助け、伯・子・男クラスの小国は大夫だけで、兵を出して大国に従うにとどまる。この秩序があってこそ、上は下を正し、下に悪が生じない。
- 「今、我が魯は小国であり、斉・楚という大国に挟まれ、貢賦を整えて従っていてもなお討伐を恐れる立場にある。それなのに大国のように三軍を作れば、大国を怒らせるだけではないか」と諫めたが、聞き入れられず、中軍が新設された。以後、斉・楚が代わる代わる魯を討ち、襄公・昭公はともに楚へ朝見に赴くこととなった。
諸侯伐秦魯人以莒人先濟
- 諸侯が秦を討った際、涇水まで至って誰も渡ろうとしなかった。晋の叔向が叔孫穆子に「諸侯は秦の不遜を討とうとしているのに、涇水で止まっていては秦に何の効果もない」と言うと、穆子は「私の務めは《匏有苦葉》の詩(必ず渡ることを詠う詩)の心境に至っている、それ以外は知らない」と答えた。
- 叔向はこれを聞き、舟の担当官と司馬を召して「詩に己の志を託すというが、魯の叔孫がこの詩を賦したからには必ず渡るだろう。船を用意し道を整えよ」と命じた。この遠征では魯人が莒人を先に渡らせ、諸侯もこれに続いた。
襄公如楚
- 襄公が楚に向かう途中、漢水まで来たところで楚の康王の訃報を聞き、引き返そうとした。叔仲昭伯は「あなたが来たのは康王個人のためではなく、楚の名声と勢力のためだ。王が死んでもその名声も勢力も変わっていない、なぜ引き返すのか」と主張し、他の大夫たちも皆引き返すことを望んだが、子服惠伯は「どうすべきか分からない、ひとまず君の判断に従おう」と述べた。
- 叔仲は続けて「あなたが来たのは自分の安全のためではなく国家の利益のためであり、楚を義とみなしたからではなく、その名声と勢力を恐れたからこそ遠路も厭わず来たのだ。義を重んじる者は、相手の喜びを祝い憂いを弔うものなのに、まして畏れて服属しているのならなおさら弔問すべきである。楚王が亡くなり、太子はすでに成人し、執政も変わらないのに、聞いて赴かず喪を聞いて引き返せば、誰が我らを侮らないと言えようか。楚の重臣たちが君主に仕え政を執っている間は、二心を抱く余地はない。侮りを晴らそうとする楚は、以前にも増して急いで報復するだろう、これでは怨みが増すばかりではないか。もし禦楚の術と守国の備えが十分にあるならば引き返してもよいが、そうでなければ行くべきだ」と説得し、一行は楚へ向かった。
- 帰路、方城まで来たところで季武子が卞を襲ったとの報せが届き、襄公は引き返して楚の軍を借り魯(実質は季氏)を討とうとした。榮成伯は「不可」と諫める。「君の臣に対する威は本来大きいはずだが、国内で命令できずに諸侯に頼るとは、誰があなたに親しむだろうか。もし楚の力で魯を討てば、季氏(卞を奪った経緯に民が従っている)はかえって固く守り、楚が魯に勝てば同姓の諸侯すら顧みられなくなる、まして君自身はなおさらだ。楚はむしろ自分の同族を魯に置いて東夷を服させ、天下に号令しようとするだけで、あなたに何の恩義も感じない。もし楚が魯に勝てなければ、蛮夷の力を借りて攻めた挙句に入国を求めても叶うまい。卞は季武子に与えるべきだ、武子はあなたに仕える上でこれ以上背くことはあるまい。酔って怒り、醒めて喜ぶようなもの、何の害があろうか」と説き、襄公は帰国した。
季冶致祿
- 襄公が楚にいる間、季武子は卞を奪い、季冶を遣わして襄公を出迎えさせた。季冶は追いかけて渡された印書に「卞の民が叛こうとしていたので討伐し、既に平定した」と書かれているのを見せられ、これを君に告げた。
- 榮成子は襄公が怒る前に先んじて「あなた(季冶)は魯国の股肱であり、社稷の事はあなたが実質的に取り仕切っている。都合のよいようにすればよいだけのことで、何も卞のことに限らない。卞に罪があってこれを討ったのなら、あなたの配下がしたことに過ぎない、あえて君に報告する必要もない」と述べた。
- 季冶は帰国後、俸禄を返上して出仕せず、「自分は君を欺く役目を負わされた(卞の民が叛こうとしていたという偽りの報告をさせられた)。君を欺いておきながら、どうして俸禄を受け朝廷に立つことができようか」と述べた。
叔孫穆子知楚公子圍有篡國之心
- 虢の会(宋の盟を確認する会)で、楚の公子圍(後の靈王)が二人の護衛に戈を執らせて先導させていた。蔡の公孫歸生(子家)と鄭の罕虎(子皮)が叔孫穆子を訪ね、穆子は「楚の公子はまるで君主のような立派な装いだ」と言った。子皮が「戈を執った先導がいるのが不審だ」と言うと、子家は「楚は大国であり、公子圍はその令尹だから、戈を執った先導がいてもおかしくはないだろう」と言った。
- 穆子は反論する。「そうではない。天子は虎賁を置いて武の訓練を示し、諸侯は旅賁を置いて災害を防ぎ、大夫は副車を備えて職務に応じ、士は陪乗を置いて使い走りをさせる。今、一介の大夫でありながら諸侯の装いをするのは、既に国を奪う野心があるということだ。もしその心がないなら、あえてそのような装いで諸侯の大夫に会うだろうか。彼はもはや(大夫として楚に)戻れないだろう」。
- 「服装とは心の表れである。もし楚公子が君主にならなければ、必ず死に、二度と諸侯の会に列することもないだろう」と穆子は予言した。果たして公子圍は帰国後、郟敖(康王の子・麇)を絞殺して位を奪った。
叔孫穆子不以貨私免
- 虢の会が終わり退出する前、季武子が莒を攻めて鄆を奪ったとの報せが会に届き、莒人がこれを訴えたため、楚人(令尹圍)は叔孫穆子を処刑しようとした。晋の樂王鮒が「私が楚に取り成そう」と穆子に賄賂を求めたが、穆子は応じなかった。
- 家臣の梁其踁が「賄賂で身を守れるなら、なぜ惜しむのか」と言うと、穆子は「お前の分かることではない。君命を受けて大事(盟)に臨んでいる時に国に罪があり、それを賄賂で私的に免れようとすれば、公の会を私事にしてしまうことになる。もしこれが許されれば、賄賂で私欲を叶える前例を作ることになり、諸侯の卿たちが皆これに倣うようになる。それでは自分の安全のために諸侯全体の秩序を乱すことになる。君子はこうした不正な行いを憂うるのだ。私は財を惜しんでいるのではなく、不正を憎んでいる。それに、この罪は私自身の落ち度ではなく季武子によるものだから、処刑されても構わない」と答えた。楚人はこれを聞き、穆子を赦した。
- 帰国後、季武子が穆子を労おうとしたが、穆子は正午まで出て会おうとしなかった(盟約を破って莒を攻めたことへの不満から)。家臣の曾阜が「もう出てもよいでしょう」と促すと、穆子は「処刑されることを厭わなかったのは、国の柱(政卿である季武子)を支えるためだ。棟が折れれば垂木も崩れる、私はそれを恐れているのだ。たとえ外で死のうと、内では宗族を守るべきだ。今、既に大きな恥辱を免れたのに、小さな怒りを我慢できないようでは、有能とは言えまい」と言い、出て武子に会った。
子服惠伯從季平子如晉
- 平丘の会で、晋の昭公は叔向に命じて魯の昭公を退け、盟約に加わらせなかった(季平子が莒を攻めて郠を取ったことを莒人が晋に訴えたため)。子服惠伯は「晋が蛮夷(莒)を信じて兄弟の国(魯)を見捨てるのは、執政に二心があるからだ。これでは他の諸侯の信も失うだろう。悪政を敷く者はやがて人に害を及ぼす、魯にも累が及ぶことを恐れる、恭順に努めねばならない。必ず上卿を晋に遣わすべきだ」と進言した。
- 季平子(意如)は「もし私が行けば晋は私を捕らえるだろう、誰が私の副使となるのか」と問い、子服惠伯(椒)は「私が既にそう進言した以上、この難を避けるわけにはいきません、私が従いましょう」と申し出た。
- 晋人は平子を捕らえた。惠伯は晋の宰相韓宣子(起)に面会し「盟約とは信の要である。晋は盟主として信を主とすべきなのに、盟約に際して魯侯を退けたのでは信が欠けることになる。かつて欒氏の乱の際、斉が晋の混乱に乗じて朝歌を奪った時、我が先君襄公は安んじることなく叔孫豹に全軍を率いさせ、足の悪い者まで残さず従軍させて雍渝に陣を敷き、邯鄲勝とともに斉の左軍を撃ち、斉の大夫晏萊を捕らえ、斉軍が退くまで戦い抜いた。これは遠征の功名を求めたのではなく、魯が斉に近い小国であり、いつ攻められてもおかしくない立場にあるため、憂いを晋と共にすることが魯の利益になると考えたからだ。今、蛮夷を信じて魯を見捨てれば、晋のために尽くしてきた諸侯たちは何を励みにすればよいのか。魯を見捨てて他の諸侯を固めようとするなら、群臣は誅を恐れず離反するだろう。魯ほど晋に尽くしてきた諸侯はない、それを蛮夷のために見捨てるのは、蛮夷を得て諸侯の信を失うことになるのではないか。あなたはその利害をよく考えるべきだ、小国は命に従うのみだから」と説いた。宣子はこれに納得し、平子を帰国させた。
季桓子穿井獲羊
- 季桓子(斯)が井戸を掘ったところ、土器のようなものが出て、その中に羊のようなものがあった。使者を遣わして孔子に「井戸を掘って狗(あるいは羊)のようなものを得た、これは何か」と尋ねさせた。
- 孔子は「私が聞くところでは、木石の怪を夔・蝄蜽といい、水の怪を龍・罔象といい、土の怪を羵羊という」と答えた(土中から得たものであるから、それは羵羊であろうと判断したのである)。
公父文伯之母對季康子問
- 季康子が公父文伯の母(敬姜)に「主にも私に教えていただけることがあるでしょう」と尋ねた。敬姜は「私はもう年老いているだけで、あなたに教えることなど」と謙遜したが、康子が重ねて所望すると、「亡き姑(先姑)の言葉に『君子は労することができれば、後世まで家系が続く』とあった、これだけを聞いている」と答えた。子夏はこれを聞き「よい言葉だ。私も『昔、嫁ぐ者が舅姑(夫の父母)の教えを受けられなかったのは不幸なことだとされた、夫婦は舅姑から学ぶものだ』と聞いている」と評した。
公父文伯飲南宮敬叔酒
- 公父文伯が南宮敬叔(説)を酒でもてなし、露睹父を上客とした。出された鼈(すっぽん)が小さかったため、睹父は怒り、周りが鼈を勧めても「この鼈が大きくなってから食べさせてもらおう」と言って席を立ってしまった。
- 文伯の母(敬姜)はこれを聞いて怒り、「亡き先舅(季悼子)の教えに『祭祀では尸(神霊の依代)をもてなし、饗宴では上客をもてなす』とあった。鼈ごときに何の礼があろうか、それなのに客を怒らせてしまうとは」と述べ、文伯を家から追い出した。五日後、魯の大夫たちが取りなして復帰させた。
公父文伯之母論內朝與外朝
- 公父文伯の母(敬姜)が季氏の邸へ赴いた際、康子は外朝で待っていた。敬姜は言葉をかけても返事がなく、そのまま寝室の門まで進んでも入らなかった。康子は自分の家臣を退けて敬姜を出迎え、「私(肥=康子)はお会いできず、何か罪でもございましたか」と尋ねた。
- 敬姜は「聞いたことがないか。天子や諸侯は外朝で民事を合議し、内朝で神事(祭祀)を合議する。卿以下は外朝で官職の事を合議し、内朝で家事を合議する。寝室の内では婦人がその仕事を行う、これは上下すべて同じである。外朝であなたは君の官職について語るべき場、内朝であなたは季氏の政について語るべき場であり、いずれも私が口を出すべきことではありません」と答えた。
公父文伯之母論勞逸
- 公父文伯が朝廷から退出し母に挨拶すると、母はちょうど機織りをしていた。文伯は「私の家柄で母が機織りをするとは、季孫(康子)の怒りを恐れているのですか、私が母を養えないと思われはしませんか」と言った。
- 母は嘆いて「魯は滅びるだろう、幼い子に官を任せておきながら、まだ道を聞かせていないとは。座りなさい、話をしよう。昔の聖王は民を痩せた土地に住まわせ、労働させて用いた、それゆえ長く天下に王たりえた。痩せた土地は利が薄く、労働すれば奢りに走らない、贅沢に流れなければ義に向かうからこそ、長く王でいられたのだ。民は労すれば思慮を働かせ、思慮を働かせれば善心が生まれる。逸楽に流れれば善を忘れ、悪心が生まれる。肥沃な土地の民に才ある者が少ないのは安逸なためであり、痩せた土地の民が皆義に向かうのは労するためである」と諭す。
- 続けて、天子は日の出とともに三公・九卿と共に地の徳を学び、正午には百官の政事を統括し、夕には月を祀りながら大史・司載と天の法を敬い観測し、日没には九嬪に粢盛を清めさせてようやく休む。諸侯は昼に国の職務を考え、夕に法制を省み、夜に百官を戒めて怠りを防ぎ、ようやく休む。卿大夫は昼に政務を、夕に業務を整え、夜に家事を治めてようやく休む。士は朝に学び、昼に復習し、夕に反省し、夜に過ちを悔いなくしてようやく休む。庶人以下は明るいうちに働き暗くなれば休み、怠る日はない。これらはすべて公を先にし私を後にする道理である、と述べる。
- 王后は冠飾りの紞を自ら織り、公侯の夫人はこれに紘・綖を加え、卿の正妻は大帯を、命婦は祭服を、士の妻は朝服を仕立て、庶士以下の妻も皆夫の衣を織る。春の社祭では農事を割り当て、冬の蒸祭では成果を献上し、男女それぞれの働きに功罪の評価がある、これが古の制度である。君子は心を労し、小人は力を労するのが先王の教えであり、上から下まで誰も心を怠ることは許されない。
- 「今、私は寡婦であり、あなたは下位の身、朝夕仕事をしていても先人の事業を忘れることを恐れている。まして怠惰であれば、どうして咎めを避けられようか。私はあなたが朝夕自らを戒め『先人の事業を廃さない』と誓うことを望んでいたのに、あなたは『なぜ安逸にしないのか』と言う。そのような心で君の官職に仕えれば、私は穆伯(あなたの祖父)の家系が絶えることを恐れる」と述べた。孔子はこれを聞き、「弟子たちよ、心に留めよ。季氏の婦人は淫(怠惰)ではない」と評した。
公父文伯之母別於男女之禮
- 公父文伯の母(季康子の祖父の従兄弟の妻にあたる)を康子が訪ねた際、寝室の門を開けて話をしたが、二人とも敷居を越えなかった。悼子(穆伯の父、敬姜の亡き舅)の祭祀に康子が参加した際も、敬姜は献酬の酒を自ら受けず、祭祀後の宴にも同席しなかった。宗族の主だった臣が揃わなければ繹祭(翌日の祭)に加わらず、繹祭に加わっても酒宴を尽くさずに退出した。孔子はこれを聞き「男女の礼の区別をよく心得ている」と評した。
公父文伯之母欲室文伯
- 公父文伯の母が文伯に嫁を迎えさせようとし、宗族の長老(宗老)を招いて宴を開き、『詩経』邶風「綠衣」の第三章を歌わせた(古の賢人が家庭を正しく治めたことを慕う歌である)。宗老はこれを受けて占い師に良縁の一族を占わせることを願い出た。
- 楽師の師亥はこれを聞き「よろしいことだ。男女の宴は宗族の重臣には及ばないが、宗族の縁組の相談は宗族の重臣以外には及ばない。(敬姜は男女の宴には重臣を招かず、縁組の相談だからこそ宗老を招いたのである。)礼を犯さず、しかも詩によって意図をさりげなく伝える、実に見事なやり方だ」と評した。
公父文伯卒其母戒其妾
- 公父文伯が没した際、母は妾たちに戒めて言った。「『色好みの男は妻妾のために死に、外交好みの男は士のために死ぬ』と聞く。文伯が若くして死んだ今、私は彼が色好みだったという評判が立つことを恐れる。あなたたちは先祖の祭祀を辱めないよう、やつれた顔をせず、涙も見せず、胸を叩いて嘆かず、憂いの表情も見せず、喪の礼は控えめにしても過剰にはせず、礼に従い静かに振る舞うことで、息子の名誉を明らかにしてほしい」。
- 孔子はこれを聞き「女性の知恵は妻の知恵に及ばず、男性の知恵は夫の知恵に及ばないというが、公父氏の婦人(敬姜)の知恵はまさにそれだ。婦人の情としては子を愛し妻妾に悲しんでもらいたいと願うものだが、敬姜はあえて感情を抑え、息子の令徳を明らかにしようとした、これは男の知恵というべきだ」と評した。
孔丘謂公父文伯之母知禮
- 公父文伯の母は、朝に穆伯(夫)を哭し、夕方には文伯(息子)を哭した(それぞれの喪の時期に応じて哀悼したという意味)。孔子はこれを聞き「季氏の婦人は礼を知っていると言えよう、愛情に私心なく、上下(父と子)にそれぞれ礼の筋目が立っている」と評した。
孔丘論大骨
- 呉が越を破り会稽を陥落させた際、一節の骨が車一台分もの長さのものが見つかった。呉王が魯に修好の使者を送り、孔子にこの骨について尋ねさせた(「私(呉王)の名は出すな」との配慮つきで)。
- 使者は献上品を魯の大夫や孔子に配り、宴の後、この骨を手に「なぜこれほど大きいのか」と尋ねた。孔子は「昔、禹が会稽山に諸神(山川を司る神々)を集めた際、防風氏(汪芒氏の君)が遅れて参上したため、禹はこれを殺して晒しました。その骨がこの大きさだったのです」と答えた。
- 使者が「では誰が神を守るのか」と問うと、孔子は「山川の霊で天下を治める力を持つ者が神として祀られ、社稷を守る者は公侯とされ、皆天子に属する」と答えた。「防風は何を守っていたのか」と問われ、「汪芒氏の君で、封山・嵎山を守り、漆姓の一族です。虞・夏・商の時代は汪芒氏、周では長狄と呼ばれ、今は大人(巨人)と呼ばれています」と答えた。「人の身長の限界はどれほどか」と問われると、「僬僥氏は三尺で最も短く、長い者もその十倍を超えることはない、それが数の極みです」と答えた(防風氏はまさにその十倍、三丈に及ぶ大きさだったのである)。
孔丘論楛矢
- 孔子が陳にいた時、隼が陳侯の庭に落ちて死に、楛(木)の矢が刺さり、石の鏃で矢の長さは尺八寸ほどであった。陳の惠公はこの隼を持って孔子の宿舎に使者を送り、由来を尋ねさせた。
- 孔子は「この隼は遠方から来たものです、これは粛慎氏(北方の異民族)の矢です。昔、武王が殷を滅ぼした後、九夷・百蛮に道を通じさせ、それぞれの地の産物を貢がせて職務を忘れさせないようにしました。その時、粛慎氏は楛の矢と石の鏃を貢ぎ、その長さは尺八寸でした。先王はその令徳が遠方にまで及んだことを示すため、後世に伝えられるよう矢の箆に『粛慎氏の貢矢』と銘を刻み、これを娘の大姬に分け与え、虞の胡公に配して陳に封じました。古は同姓には珍しい玉を分け与えて親愛を示し、異姓には遠方からの貢物を分け与えて職務を忘れさせないようにしたのです、それゆえ陳には粛慎氏の貢物が分け与えられたのです。もし有司に古い蔵を探させれば、見つかるはずです」と答えた。探させたところ、金属の箱の中から果たして見つかり、孔子の言葉どおりであった。
閔馬父笑子服景伯
- 斉の閭丘明が魯に盟約のため訪れた際(斉の悼公が魯にいた頃、季康子の妹を娶ったが、即位後に迎え入れた際、季魴侯と密通していたことが露見し、斉が怒って魯を攻めたが和議が成立し、閭丘明が盟約に来た)、子服景伯(何)は宰人に「過ちがあれば恭順の方に傾くように」と戒めた。
- 大夫閔馬父はこれを聞いて笑った。景伯が理由を尋ねると、馬父は「あなたの言葉が驕り高ぶっているのを笑ったのだ。昔、正考父が周の太師のもとで商の頌歌十二篇を校訂し、「那」を首とした。その締めくくりの言葉に『いにしえより、先人がこれを行ってきた。朝夕慎み恭しく、事に仕えては敬いを尽くす』とある。先人はこの恭敬の道を『自古(いにしえより)』『在昔(かつて)』『先民(先人)』とし、自らの功績とは称さなかった、それほど謙虚だったのだ。今、あなたが役人に『過ちがあれば恭順に傾け』と戒めるのは、あまりに驕り高ぶった物言いだ」と述べる。
- 「周の恭王は昭王・穆王の過失を覆い隠したことから『恭』と諡され、楚の恭王は自らの過ちを認めたことから『恭』と諡された(楚の恭王は病床で大夫たちに『私は不徳で楚の軍を敗れさせた、死後は「靈」か「厲」の諡にしてほしい』と言ったが、大夫子囊が『あなたは実に恭であった、恭と呼ぶべきではないか』と答え、大夫たちもこれに従った)。今、あなたが属官に『過ちがあってこそ恭順に至れ』と教えるのは、道理として本末が逆ではないか」と結んだ。
孔丘非難季康子以田賦
- 季康子が田賦(田畑単位で軍賦を課す新制度)を導入しようとし、冉有(孔子の弟子で季氏の家宰)を通じて孔子に意見を求めた。孔子は表立って答えず(制度として正しくないと考えたため)、冉有にだけ私的に語った。
- 「先王は土地の肥痩によって税を定め、遠近を平準化し、里(商業地)については収入の多寡を量って差をつけ、労役については夫(成人男子)の数を基準にしつつ、老幼には配慮し、鰥寡孤独や病人には課さなかった。軍事があれば徴収し、なければ徴収しない。軍事のある年でも、一井(土地の単位)あたりの収穫は稯(穀束)・秉(飼葉)・缶(米)程度にとどめ、それ以上は取らなかった、先王はこれで十分としたのだ」。
- 「もし季孫氏(康子)がこの先王の法(周公の定めた籍法)に従いたいのであれば、既にその制度は存在する。もし法を無視して勝手に賦を課したいのなら、なぜ私に相談する必要があろうか」と述べた。康子はこれを聞き入れず、魯の哀公十二年春、ついに田賦を実施した。