契丹國志卷二十六 諸王傳 東丹王・恭順皇帝・孝文皇太弟・齊國王隆裕・魯王宗元・晉王宗懿・燕王洪道・梁王信寧
東丹王――出自と渤海鎮守
- 東丹王は名を突欲といい、太祖の長子で、母は述律氏。太祖が渤海を攻めて夫餘城を落とすと、渤海国を改めて東丹国とし、長子の突欲に鎮守させ、「人皇王」と号した。時は後唐の明宗の初年にあたる。
- 太祖が渤海の地で崩じると、述律后は末子の安端に東丹の守りを命じ、突欲は太祖の柩を奉じて渤海を発った。
東丹王――東丹統治と即位争い
- 突欲が東丹を治めていたころ、そこはもとの渤海国の宮殿を備え、突欲は十二旒の冕を被り、龍を描いた服を着て、皇帝のように政令を発した。渤海の左右平章事・大内相以下の百官はすべて自国で任免し、契丹へは毎年細布五万疋・粗布十万疋・馬千匹を貢納した。
- 太祖の崩御後、述律后は次子の徳光を寵愛して立てようとし、西楼に至って突欲と徳光をともに馬に乗せ帳の前に立たせ、諸将に「二人ともわが子で愛しているが、誰を立てるべきか分からない。お前たちが立てるべき者を選び、その馬の轡を取れ」と告げた。諸将はその意を察して争って歓声を上げ「元帥太子(徳光)にお仕えしたい」と言った。后は「衆の望むところを、どうして拒めようか」と徳光を立て、天皇王・皇帝とした。
- 突欲は不満を抱き、数百騎を率いて唐に奔ろうとしたが、巡邏の者に阻まれた。后はこれを罪とせず、東丹へ帰した。後唐明宗の長興元年、突欲は自ら地位を失ったと考え、部曲四十人を率いて海を渡り登州から唐に奔った。明宗は姓を東丹、名を慕華と賜り、懐化節度使・瑞州や慎州などの観察使とし、その部曲や先に捕虜となっていた惕隱らにもみな姓名を賜った(惕隱は姓を狄、名を懐惠とされた)。
- 翌年、明宗はさらに東丹慕華に「李贊華」の名を賜った。
東丹王――義成節度使としての晩年
- 明宗の長興三年、贊華は義成節度使となり、朝士を選んで補佐させた。贊華はただ悠々と自適し政務に関わらず、明宗はこれを嘉した。時に不法な行いがあっても問われず、後唐の荘宗の後宮であった夏氏を妻とした。贊華は人の血を飲むことを好み、姫妾の多くが腕を刺して血を吸わせられた。婢僕は小さな過ちでも目をえぐられたり刃物で切られたり火で焼かれたりした。夏氏はその残酷さに耐えられず、離婚して尼となることを願い出た。
- 贊華が唐に帰る際、海を渡る船上から海岸に木を立てて碑とし、二十字の漢詩を刻んだ。「小山は大山を圧すも、大山は全く力なし。故郷の人に会うを羞じ、これより外国に身を投ず」という内容であった。
- 贊華は生来読書を好み、狩猟を好まなかった。東丹にいた頃、人に金銀財宝を持たせてひそかに幽州に入り書を買わせ、それを載せて随行させたものは数万巻に及び、醫巫閭山に書堂を建て「望海堂」と扁額した。
東丹王――最期と諡
- 潞王の末年、後晋(石晋)が反乱を起こし契丹に援軍を求めた。潞王がすでに危うくなると、宦官の秦継旻・皇城使の李彥紳を遣わして贊華を殺させ、贊華はその邸宅で害された。石晋は贊華に燕王を追贈し、使者を遣わしてその柩を送り故国に帰した。
- のちに太宗(徳光)が石晋を破って中原に入ると、李彥紳・秦継旻を捜し出して殺し、その一族の財物を東丹王の子・兀欲に賜った。兀欲はのちに即位して世宗となり、贊華を醫巫閭山に葬り、「讓國皇帝」と諡した。
恭順皇帝
- 自在太子は名を阮といい、太祖の第三子、母は述律氏。若くして豪侠で智略があり、弾や弓に巧みで、太祖はこれを奇として「わが家の鉄の児だ」と評した。渤海征伐の際、山坂は高く険しく士馬は労苦を憚ったが、太子だけは東の谷を径て崖沿いに進み、たびたび戦功を挙げた。渤海平定ののち自在太子に封じられ、まもなく薨じて祖州に葬られ、追諡して「恭順皇帝」とされた。その子の拽剌は趙王に封じられたが、のちに景宗によって害された。
孝文皇太弟
- 孝文皇太弟隆慶は、契丹名を菩薩奴といい、母は蕭氏、景宗の第二子。生まれつき聡明で、幼くしてすでに大人のように振る舞った。幼時に子供たちと戦の陣立てを真似た遊びをしたとき、指揮の様子に気迫があり誰も逆らえなかった。景宗はこれを奇として「わが家の生まれたばかりの馬駒だ」と評した。長じて騎射に優れ、風のように敏捷であった。
- 定州の戦いでは梁王に封じられ兵馬大元帥を加えられて、母の蕭后に従って出征し、力戦して深く敵陣に入り、王繼忠を捕らえる功を立てた。西京留守を拝し秦晋国王に封ぜられ、また尚書令を拝した。まもなく薨じて祖州に葬られ、「孝文皇太弟」と諡された。
齊國王隆裕
- 齊國王隆裕は、契丹名を高七といい、母は蕭氏、景宗の第三子。性は沈毅で容姿は美しかった。はじめ鄭王に封じられ、遙かに西南面招討使を授けられ、呉國王を拝した。少年時から道教を慕い、道士を見れば喜んだ。のちに東京留守となり、道観を盛んに造営して極めて壮麗にし、東西の廊を数百間にわたって正殿に連ねさせた。また別に道院を設け道士を招き、経を誦し醮を行わせ、精進料理を供え、中京の地でも次第に感化された者が多かった。蕭太后が薨じた翌年に隆裕も薨じ、齊國王を追封された。
魯王宗元
- 魯王宗元は興宗の同母弟である。若くして雄々しく荒々しく、人並み外れて頑迷であった。はじめ鄭王に封じられ、さらに兵馬大元帥を加えられ晉國王に封ぜられた。性質は極めて残忍で、死罪の囚人が出るたびに衆に命じて弓で射させ、斬った上でその肉を刻ませ、血が満ちる中で平然と飲み食いした。臣従する意志を持たず、常に機会をうかがっていた。洪基(道宗)が即位すると、長楽(皇太后)の命を受けて皇叔とされた。のちに狩猟の折を狙って帝を弑そうとしたが、左右の者に阻まれて事は成らず、宗元は子の洪孝ともども誅殺された。
晉王宗懿
- 晉王宗懿は、契丹名を查箇只といい、聖宗の弟で孝文皇太弟隆慶の子である。若くして器量と才略があった。聖宗は甥たちを大変可愛がり、常に「お前は才能をもって人を侮ってはならず、富貴をもって人に驕ってはならない。ただ忠と孝を尽くしてこそ、家と身を保てる」と戒めた。はじめ中山王に封じられ、龍化州・饒州・建州・宜州・平州の節度使を歴任し、晉王に改封され、薨じた。
燕王洪道
- 燕王洪道は、契丹名を叱地好といい、道宗の同母弟である。武略に長け、庫莫奚が侵掠すると詔を受けてこれを討伐した。洪道は林の中に伏兵を置き、偽って敗走すると見せかけ、奚軍が輜重を奪う隙に伏兵と合流して撃ち、ことごとく殲滅した。のちに渤海の高頹樂が反すると、また命を受けて討伐した。最終的に燕京留守として在職中に没し、燕王に封じられた。
梁王信寧
- 梁王信寧は、契丹名を解里といい、北大王烏斡の子である。はじめ祗候郎君として林牙を授けられ、雲州・奉聖州・蔚州の節度使、同平章事を歴任した。帝と共謀して太后を宮中から追放し、南大王・北大王・惕隱・南宰相を拝し、梁王に封ぜられ、尚父を加えられて致仕した。
史論
- 皇后は並び立ってはならず、並び立てば国は傾く。嫡子は庶子と肩を並べてはならず、並べば国は危うくなる。契丹は北方の荒れた地から興り、中原の大国を呑み込んだが、嫡庶の分をどれほど弁えていただろうか。「元帥太子」の称は本来突欲に属すべきであったのに徳光に帰した。国を立てた当初から、すでにこの点は議論の余地があった。その後、述軋が帝位を狙う謀を起こし、宗元が誅殺される禍にあったのも、何ら怪しむに足りないことである。