晉表
晉出帝降表
- 晋の出帝が遼帝に奉じた降伏の上表。「孫男臣重貴」と称し、唐末の混乱の中で先人(石敬瑭)が寡兵で苦しんでいたところ「翁皇帝」(遼太宗)が自ら甲冑をまとい雁門の険を越えて援軍し、晋の建国に大きな恩があったと述べる。その後先君(高祖)が没し臣(出帝)が後を継いだが、諒闇(服喪)のため軍国の重事を将相に委ねたところ、勝手に宗祧を継ぎ、身の程を超えた文書(臣を称さぬ書状)を送って尊厳に逆らったことが禍を招き、天の怒りに触れ十万の軍も戦わずして降し万民も帰服を望んでいると述べ、自らの不明を恥じつつ、遼帝が旧誼を思い先祀を絶やさぬよう慈悲を乞う内容。太后・妻馮氏とともに郊野で面縛して処罰を待つと結ぶ。
皇太后降表
- 晋室皇太后李氏の降伏上表。先帝(石敬瑭)が并州・汾州で危難にあった際、遼の「皇帝阿翁」が自ら河東に赴き乱を平定し晋の社稷を立てた恩義に触れ、嗣子(出帝)が好誼を継げず盟約に背いたことで戦乱を招いたのは自らの咎であるとし、今や上下ともに武装を解いて降ることを述べる。慰撫の詔を受けた感謝を述べ、孫の延煦・延宝に上表させ罪を請う内容。
澶淵誓書(1004年)
- 統和二十二年(宋の景徳元年)に交わされた宋・遼間の講和文書。
宋真宗誓書
- 宋は毎年絹二十万匹・銀十万両を歳幣として供出し、使者を北朝へ専派せず三司の担当者が雄州で引き渡す取り決め。沿辺の州軍はそれぞれ境界を守り互いに侵犯せず、盗賊・逃亡者を匿わないこと、農耕を妨げないこと、両国の城池は旧のまま維持し新たな築城や河道の開削を行わないことなどを定め、子孫代々この盟約を守ることを天地・宗廟に誓う。
契丹聖宗誓書
- 宋の誓書とほぼ同文の内容で、歳幣の受領条件・境界の維持・不可侵などを遼側からも改めて誓約する返書。
關南誓書(1042~1043年)
- 重熙年間、契丹興宗が宋に瓦橋関以南(関南)の地の返還を求めた交渉の往復文書。
契丹興宗致書
- 瓦橋関南の地はもと石晋(後晋)が割譲したもので、後周の柴氏の代に一時的な策謀で十県の故地を掠め取ったものだと主張し、返還を求める。あわせて西夏の李元昊が遼に臣従し甥舅の誼があることに触れ、宋が辺境に堤や軍備を増強していることへの疑念も述べる。
宋朝回契丹書
- 宋は瓦橋以南の地は先代(章聖皇帝=真宗)以来の統治であり異代の事情を持ち出すのは筋違いであるとし、太宗の親征も燕地を狙ったものではなく当時遼が援軍を出した経緯を説明。堤防の修築は霖雨対策であり疑念を招くものではないとして、既存の盟約の遵守を求める。
契丹回誓書
- 澶淵の誓書の条項を確認したうえで、関南の地の返還には応じられないとしつつ、その代わり歳幣を絹十万匹・銀十万両増額し、雄州の白溝で引き渡すことで合意する。境界の溏淀・堤堰の扱いや両国の駐屯兵力の上限、逃亡者の扱いなどの細目も定め、澶淵・統和の誓書に準じる旨を記す。
議割地界書(1074年)
- 契丹道宗が使者蕭禧を宋に遣わし代北の国境地帯の帰属を協議させた際の往復文書。最終的に宋は五百里の地を割き分水嶺を境界とすることで決着した(宋の熙寧七年)。
大遼求地界書
- 蔚州・応州・朔州の境界について、宋側が近年戍塁を新設し境を侵していると主張し、現地調査のうえ撤去するよう求める。
宋朝回書
- 宋は両国の友好を重んじ、実際に検分のうえ事実に基づき対応するとし、既存の誓約の遵守を確認する内容で応じる。