契丹國志卷四 帝紀 道宗皇帝

道宗(諱洪基、興宗の子、1032年–1101年、在位四十七年、廟号道宗、諡天福皇帝)。清寧・咸雍・壽昌などの時代、宋との国境紛争や身内の反乱(重元の乱)に対応した。晩年、女真の阿骨打の増長を許し、後の金建国の伏線を残した。

年表(14件)

出自と生い立ち

  • 道宗の諱は洪基、興宗の子。興宗は重熙二十三年八月に崩じ、洪基が即位し重熙二十三年を清寧元年と改めた。

清寧元年(1055年)

  • 特記事項なし。

清寧二年(1056年)

  • 秋七月、彗星が紫微垣に現れ七星を経て白色の光を放ち長さ一丈余りであった。
  • 八月朔、日食があった。

清寧三年(1057年)

  • この年、祖母の法天皇太后蕭氏が没した。帝は懐徳節度使蕭福延を宋に遣わし喪を告げた。宋の仁宗は内東門幄殿で哀悼の意を表し、百官が弔問し七日間朝政を停止した。

清寧四年(1058年)

  • 秋八月朔、日食があった。

清寧五年(1059年)

  • 春正月朔、日食があった。
  • 夏四月、宋は周の恭帝の子を崇義公とし田十頃を与え周の祭祀を継がせた。

清寧六年(1060年)

  • 春正月、東南に大きな星が落ち雷のような音がした。

清寧七年(1061年)

  • 夏六月朔、四分の日食があった。

清寧八年(1062年)

  • 特記事項なし。

清寧九年(1063年)

  • 春三月、宋の仁宗が崩じた。在位四十二年、享年五十四。
  • 契丹は使者を遣わし大行(仁宗)を皇儀殿で祭らせ、宋の新帝(英宗)にも謁見させた。新帝は痛哭してやまなかった。
  • 蕭后(法天皇太后)の没後、魯王宗元は寵を恃んでますます驕り、宰相某と謀って反乱を企てた。宰相某が貪暴の廉で罷免されると宗元は焦り謀を急いだ。帝はこれを察知し密かに備えた。秋七月戊午、宗元は帝に従い涼淀で狩をしたが、帝が宗元に先行を譲ると宗元は応じず、帝が先に行くと山沿いに左へ進んだところ、宗元の子楚王洪孝が百余騎で急襲し帝の腕を射て乗馬も傷つき馬が倒れた。太師某が下馬して帝を助け自分の馬に乗せた。殿前都点検蕭福美が兵を率いて帝を守り洪孝と戦いこれを射殺した。帝は宗元とも戦い、宗元は敗れて逃げ南の幽州へ向かい一日で五百里を走ったが翌日自害した。燕京留守耶律明は宗元と通謀しており、その敗北を知ると奚兵を率いて城に入り甲を授け呼応しようとしたが、副留守某が漢兵でこれを阻んだ。使者が金牌をもって到着すると耶律明は捕らえられ斬られ、帝もほどなく到着し陳王蕭孝友らも連座して誅された。先に南朝(宋)へ遣わされていた使者たちも皆宗元の一党であったため、白溝を過ぎたところで檻車に乗せられ誅殺された。ただ蕭福延だけは兄の福美の功により死を免れた。

清寧十年(1064年)

  • この年、帝は林牙左監門衛大将軍耶律防、枢密直学士給事中陳顗を宋に遣わし、真宗・仁宗の御容(肖像)を求めた。宋は右諫議大夫権御史中丞張昪を回謝使とし単州防禦使劉永年を副えて応じた。のち帝は御容を慶州に安置して崇め、夕方には宮人が衣衾を整え、朔日・望日には食を供え、食の気が尽きると台に登って焼く「焼飯」の儀を行った。天と祖宗を祀るときにのみ行う礼であった。
  • (付記)先の重熙年間、興宗は父の聖宗と自らの画像二軸をもって宋に真宗・仁宗の御容との交換を求め「会いたくても会えぬゆえ聖容を求めて拝したい」と述べた。宋はこれを許したが興宗の崩御により沙汰止みとなっていたところ、道宗が改めて求めたため、宋は修撰胡宿を回謝使、李緩を副使とし、御容を賀正旦使に託して衣篋に収めて届けることを約した。

咸雍元年(1065年)

  • 特記事項なし。

咸雍二年(1066年)

  • 春三月、彗星が西方に現れた。庚申の日、明け方に室宿に現れ月ほどの大きさで長さ七尺余り、辛巳の日には昴宿に太白星ほどの明るさで現れ長さ一丈五尺、壬午の日には畢宿に月ほどの大きさで孛(彗星)として現れ、五日後に消えた。
  • 秋九月朔、日食があった。
  • この年、契丹は国号を再び大遼と改めた。

咸雍三年(1067年)

  • 春正月、宋の英宗が崩じた。享年三十八、皇子の神宗が即位した。

咸雍四年(1068年)

  • 春正月朔、日食があった。

咸雍五年(1069年)

  • 秋七月朔、日食があった。

咸雍六年(1070年)

  • 特記事項なし。

咸雍七年(1071年)

  • 特記事項なし。

咸雍八年(1072年)

  • 特記事項なし。

咸雍九年(1073年)

  • 夏四月朔、日食があった。

咸雍十年(1074年)

  • 春三月、遼は使者蕭禧を宋に遣わし河東の地界を争った。国書ではおおむね、河東路の沿辺に築いた砦や鋪舎が蔚州・応州・朔州の境内に侵入しているとして撤去を求めた。宋の神宗は「三州の地界は官吏を派遣し北朝の職官とともに現地を検分して定める。雄州外羅城は築造から十三年を経ており新築ではなく最近の事でもない、北朝がそれを望まぬなら続けて修築しない。白溝の館駅も検分し、楼や矢窓を新造した部分があれば撤去させ屯戍の兵も撤収させる」と諭した。国書にも「もし従来からの事情によるものなら容易には従い難いが、実際に侵犯があったのなら是正を惜しまない」と記した。
  • 秋九月、遼は蕭素を再び宋に遣わし境界を協議させ、宋は劉忱・呂大忠を代州に遣わし協議させた。遼は蔚州・応州・朔州の分水嶺の土隴を境界とすべしと主張したが、劉忱が現地を検分したところ土隴は存在せず、遼は改めて分水嶺を境界とすべしと言うのみで、山にはどこにも分水嶺があるため協議は長く決着しなかった。

咸雍十一年(1075年)

  • 春三月、遼は再び蕭禧に国書を持たせ宋に遣わし、劉忱らの引き延ばしを非難した。宋は沈括を報使として遼に遣わし面談させた。括は枢密院の文書を調べ、契丹が先年境界協議を始めた際に古長城を境界の指標としていた記録を見つけ、今回争っている黄嵬山とは三十里離れていることを示し、この議論に決着をつけた。
  • 秋八月朔、日食があったが陰雲のため見えなかった。
  • 冬十月、彗星が軫宿に現れた。

咸雍十二年(1076年)

  • 特記事項なし。

咸雍十三年(1077年)

  • 特記事項なし。

咸雍十四年(1078年)

  • 夏六月朔、日食があった。
  • 東南に大きな星が匏瓜宿から現れ、雷のような音がして光が地を照らした。

咸雍十五年(1079年)

  • 特記事項なし。

咸雍十六年(1080年)

  • 秋七月、彗星が太微垣に現れた。
  • 冬十一月朔、日食があった。

咸雍十七年(1081年)

  • 特記事項なし。

咸雍十八年(1082年)

  • 秋八月朔、日食があったが陰雲のため見えなかった。

咸雍十九年(1083年)

  • 秋九月朔、日食があった。

咸雍二十年(1084年)

  • 特記事項なし。

咸雍二十一年(1085年)

  • 宋の神宗が崩じた。享年三十八、皇子の哲宗が即位した。

咸雍二十二年(1086年)

  • 特記事項なし。

咸雍二十三年(1087年)

  • 夏六月、爪のような形の星が文昌宿から現れた。
  • 秋七月朔、日食があったが陰雲のため見えなかった。

咸雍二十四年(1088年)

  • 特記事項なし。

咸雍二十五年(1089年)

  • 春三月、昼に流星が東北に現れた。

咸雍二十六年(1090年)

  • 特記事項なし。

咸雍二十七年(1091年)

  • 夏五月朔、日食があった。

咸雍二十八年(1092年)

  • 特記事項なし。

咸雍二十九年(1093年)

  • 特記事項なし。

咸雍三十年(1094年)

  • 春三月朔、日食があるはずだったが雲霧のため確認できなかった。

壽昌元年(1095年)

  • 特記事項なし。

壽昌二年(1096年)

  • この年、大国舅帳の蕭解里(四郎君)は騎射に優れ豪俠で奔放な性格であった。かねて亡命者数十人を養い遼と東西の郡の間を往来して遊猟し、飲食・費用は富民から強引に取り立てていた。ある時罪を得て遼が厳しく追捕すると、蕭解里は盗賊の頭目となり十日ほどで二千余人を集め乾州・顕州など数州を陥落させた。諸道が兵を発して討伐したが幾度も勝てず、蕭解里はついに生女真の地に逃げ込み楊割太師と結んで謀反を企てた。追撃軍は境上まで迫ったが進めず、事の次第を朝廷に報告した。北枢密院は楊割に一任する宣劄子を下したが、楊割は数か月引き延ばした末に賊魁蕭解里の首だけを斬り、長子の阿骨打に献上させ、残りの者は「すでに誅し尽くした」と偽って遼に引き渡さず、随行の婦女・鞍馬・器甲・財物は功のあった者への恩賞として与えた。遼はやむを得ず楊割父子の官爵を進めた。以後、楊割父子は蕭解里平定の功を恃み内心では二心を抱くようになり、近隣の部族を併呑し、あるいは叛亡者を誘い込んだと誣告し、あるいは牛馬を盗んだと詐称し、都合が良ければ婚姻で結び都合が悪ければ武力で奪い、農耕に励んで穀物を蓄え兵を練り馬を養い、金珠や良馬を多く買い入れて毎年遼の権貴に賂を贈り誼を通じた。

壽昌三年(1097年)

  • 夏六月朔、日食があった。
  • 秋八月、彗星が氐宿に現れ天市垣を斜めに指し光芒三尺余り、三日後には長さ一丈余りとなり巴星を掃うように動いた。

壽昌四年(1098年)

  • 特記事項なし。

壽昌五年(1099年)

  • 春三月、帝は蕭徳崇らに国書を持たせ宋に遣わし宋の哲宗に謁見させ、ひざまずいて「北朝皇帝が南朝皇帝に告げる。西夏の事は早くやめてもらえれば大変結構である」と述べさせた。哲宗は「西人(西夏)は連年道理に背いており討伐は当然のこと、なぜわざわざ使者を煩わせるのか」と答え、徳崇らは唯々として退いた。国書にはおおよそ次のように記されていた。「夏国は思うに藩輔であり、代々婚姻を結び封王を受けてきた。近年、南朝の大軍が西境に深く攻め込んだとして救援を懇請してきた。遼と宋は祖孫の情厚く、夏と遼は甥舅の義に厚い。両者を共に保全すべきであり、一方だけを見捨てるべきではない。かつて慶暦・元豊の頃にもこうした申し出があり、いずれも兵を退かせた例がある。まさか今回に限り先の約束に背いて遠征を続けるつもりではあるまい、もし取り合わないというなら、事の発端に懸念が生じよう。」宋の返書にはおおよそ、「西夏は本朝の藩鎮であり、手厚く封じてきたが、北朝とは婚姻の親のみで南(宋)には臣子の分を守るべき立場にある。長らく寛容にしてきたが変詐が多く、近年は臣礼を失い金繒を与えても驕慢が増し官吏・民を殺掠し城邑を犯すため討伐に至った。ただ辺防を整え要害を守っていたところ、昨冬に西夏が全軍を挙げて攻めてきて二十日ほどで数万の死傷を出し兵糧尽きて退散した。それを詭弁を用いて救援を求めるとは狡猾の極みである。前朝(興宗)が仁宗に討伐協力を申し出た書にも『全て掃討すべし』との言があり、先例に鑑みても今回の勧和は先旨に背くのではないか」と記した。さらに別の劄子でも同様の趣旨を繰り返し、宋は郭知章を答礼の使者とした。蕭徳崇は国書に「兵を退け領土を返す」旨の文言を加えるよう強く求めたが宋帝は応じず、徳崇は都で三十七日滞在してから帰った。

壽昌六年(1100年)

  • 春正月、宋の哲宗が崩じた。享年二十五、弟の徽宗が即位した。
  • 夏四月朔、日食があった。
  • 秋七月、熒惑(火星)が房宿・心宿を犯した。
  • 遼帝は病篤くなり、孫の延禧に「南朝との通好は久しい、汝は気性が激しいゆえ決して事を起こすな」と戒め、大臣にも「新帝がもし軽々しく動こうとすれば、卿らは力を尽くして諫め止めよ」と命じた。
  • 帝は崩じた(1101年)。在位四十七年、廟号は道宗、諡は天福皇帝。
  • 帝は聡明で物事に通じ、神のように厳粛であった。書物を読めばその大略をたちどころに理解した。漢人が『論語』を講じ「北辰其の所に居りて衆星之に共(むか)う」の句に至ると、帝は「北極の下は中国と聞くが、それはこの地のことか」と尋ねた。また「夷狄の君有る」の句に至ると講師は憚って読まなかったが、帝は「昔の獯鬻・獫狁は礼法もなく無秩序であったから『夷』と呼ばれたのだ、我らは文物を修め中華と変わらぬのに何を憚る必要があろうか」と述べ講じさせた。かつて帝の晩年、女真の大酋阿骨打が悟室を伴い来朝した際、遼の貴人と双陸(すごろく)で遊んでいたところ貴人が負けを認めず不正に駒を進めたため阿骨打が激怒し小刀で刺そうとし、悟室が止めに入り鞘を握ったが阿骨打はその柄を握って刺し、胸を突いたが死には至らなかった。帝は怒り、側近は阿骨打の強悍さから誅殺を勧めたが、帝は「私は今、信を示して遠方を懐柔しようとしている、殺してはならぬ」と応じた。側近はさらに「王衍が石勒を許して中原を毒し、張守珪が安禄山を赦して唐室を傾けた例がある。阿骨打は北方の小夷に過ぎぬがすでに貴臣を凌ぐほど無君の心を抱いている、今追及しなければ後の辺患となろう」と諫めたが帝は従わなかった。
  • 女真には生・熟の別があり、混同江の南に住む者を熟女真、阿骨打の住む江の北を生女真と呼び、いずれも遼に臣服していた。遼が盛んであった頃、毎年「天使」と称する使者を遣わし銀牌を帯びさせ、女真の各地に赴くたびに美姫を寝所に侍らせることを求めた。女真の慣わしでは中下の戸を選んで使者を接待させ、未婚の女性を待たせておいたが、容姿の良い既婚女性さえも力ずくで奪われ、貴族の家であっても口をつぐんで逆らえなかった。太平が長く続くと使者の要求はとどまるところを知らず、とりわけ海東青(鷹)を好み徴発の使者が絶えず道を行き交い、使者の横暴と貪欲さは度を越し女真は次第に憤懣を募らせたが甲冑がなかった。壽昌二年に国舅蕭解里が女真の地で反乱を起こした際にようやく甲冑五百揃いを得て女真は大いに喜び、これを「阿盧里移賚」の恵みとして称えた。以後海浜王の時代に叛乱を起こした際は千騎ほどしかいなかったがその五百の甲を用いて寧江州を攻め落として以来連戦連勝し、器甲がますます充実し女真は強大化して抑えきれなくなった。

史論

  • 政が後宮から出れば龍漦(禍の兆し)が璧を継ぐ天命さえ変え、権が悍妬の手に帰せば衽席の乱れが正嫡の危機を招く。道宗は東宮より立ち大位に登ったが、氈屋の末に至っても宝暦(帝位)は保たれた。孽后(蕭皇后らの禍い)を思えば背筋が寒くなる。ついには驕り高ぶった者が禍を成し誅されたのは痛ましいことである。しかし帝の寛仁で遠方を懐柔する政道も、後年の乱亡の禍までは予見できず、二百余年の基業が阿骨打一人によって傾くこととなった。無実に近い疑いで人を誅すことを憚り寡恩の名を厭ったことが、かえって安禄山の禍のような憂いを子孫に残したのだろうか。まことに長嘆息すべきことである。