金史卷一百十八 列傳第五十六 伊喇重嘉努

河間・鎮安府の防衛

  • 伊喇重嘉努、戦功を積んで累官し河間路招撫使、遥授開州刺史権元帥右都監とし、完顔の姓を賜った。興定4年(1216年)、張甫と共に封じられ、重嘉努は河間公に封じられ献・蠡・安・深州・河間・粛寧・安平・武強・饒陽・六家荘・郎山寨がこれに隷した。興定末、所部の州県は皆守れなくなった。元光元年(1222年)、信安に屯を移した。信安は本来張甫の境内であり、張甫はこれによって信安が本来臣の北境の地で衝要に当たるので権に府に改めて重んじたいと奏し、詔で信安を鎮安府に改めた。この歳、甫と兵を合わせて再び河間府及び安・蠡・献の三州を取り、張甫と共に金紫栄禄大夫に遷った。2年(1223年)、重嘉努及び張甫は共に鎮安を保ちそれぞれ一面に当たり、別に総領提領の孫汝楫・楊寿、提控の袁徳・李成を遣わして外垣を分守させ遂に鎮安を全うした。
  • まもなく重嘉努は「鎮安は迎楽堌の海口を距てること2百余里、実に遼東往来の衝である、高陽公の甫が鎮安の西北に海船を持っている、人を募ってこれで直に遼東に抵り中外の意を通じることができる、もし賞が重くなければ人を使うに足らない、今、応募する者は特に忠顕校尉に遷り8品職を授けることを擬し、なお賞として寶泉5千貫を与えたい、もし官職がすでに忠顕・8品以上に至っている者は両官遷して職を1等昇進させ、回日にはさらに両官遷して職を2等昇進させたい」と上奏し、詔でこれに従った。