辺境の武功と壮烈な死
- 内族慶善努、名は承立、字は献甫、統軍使の古紳の子で平章博索の従弟である。人となりは儀観は甚だ偉であったが内心は恇怯で見るべきところがなかった。至寧初、宣宗が彰徳から闕に赴く際、慶善努は台城で迎え見えた。宣宗は喜んでこれを先に中都に還らせ変を観察させた。宣宗が即位すると承立を西京副留守権近侍局直長とし、官5階を進め銭5千貫を賜り、且つ詔して「汝はこの職を授けられるとはいえ、しばらく私に侍りなさい、闕あればこれに赴け、なお汝に副留守の禄を給する、これは朕の特恩である、汝はこれを悉知すべきだ」と述べた。貞祐初、武衛軍副都指揮使兼提点近侍局に遷った。呼沙呼が専権僭窃であった際、かつて宣宗にこれを言い、後に呼沙呼が誅されると慶善努はますます寵幸を得て殿前右副都点検となった。
- 3年(1215年)、大元兵が中都を囲んだ際、詔で慶善努を宣差便宜都提控とし募った兵を率いて往援させた。まもなく元帥右都監行帥府事兼前職とした。4年(1216年)、知慶陽府事兼慶原路兵馬都総管とし、獲得した馬駝を進めた際、詔諭で「これは皆軍士の得たものだ、すぐにこれを与えるがよい、朕はどうしてこれを用いようか、以後は再び進めなくてよい」とし、これによって諸道の帥府に遍く諭させた。興定元年(1217年)正月、大元兵及び夏人が寧州を経て迴(帰る)際、慶善努は兵をもってこれを邀撃し敗り、功により元帥左都監兼保大軍節度使行帥府事を鄜州で進めた。2年(1218年)5月、夏人が歩騎3千を率いて葭州から入寇した際、慶善努は兵をもってこれを逆え馬吉峰で戦い百余人を殺し酋首2級を斬り数十人を生擒し馬30余匹を獲た。
- 3年(1219年)4月、夏人が通秦寨に拠った際、慶善努は提控の納哈塔邁珠を遣わしてこれを討たせ、夏人は歩騎2万で逆戦したが邁珠はこれを撃敗し、夏人は葭蘆川から遁れ去った、首8百級を斬った。まもなく再び寨を攻めてこれを拠したので、慶善努は兵を率いてこれと戦い首5千級を斬りその寨を復した。詔で慶善努に金帯一を賜り、将士の賞賚は差等をもって与えられた。4年(1220年)4月、夏兵を宥州で破り首千余級を斬り、遂に神堆府を囲んで慶善努は四面からこれを攻めた。士卒がまさに陴(城壁)に登った時に援兵が大いに至ったが、再びこれを撃走させた。
- 正大4年(1227年)、李全が楚州に拠り、詔で慶善努を元帥とし総帥の完顔額爾克と共に兵を率いて盱眙を守らせ且つ城守で出戦しないよう命じた。まもなく全の軍が盱眙の境に及ぶと二帥は敵を迎えて大敗し死者は万余人、資仗を委棄すること甚だ多かった。時に軍に見糧なく転輸が続かず民は疲奔命となり愁歎は道に満ちた。諸相は正言をあえてしなかったが、樞密判官の白華は拝章してこれを斬って天下に謝すことを乞うたが報われなかった。定国軍節度使に降され、また賄賂を受けたことにより官一階を奪われた。8年(1231年)正月、鳳翔が破れ両行省が京兆の居民を河南に徙し、慶善努に行省としてこれを守らせた。時に京兆行省にはただ病卒8百・瘦馬2百があるのみで、承立は守れないことを懼れしばしば還ることを請う奏を上げ、毎に一帖を奏するたびにその兄博索に一書を副えて口添えさせたが、朝廷は許さなかった。
- 10月、慶善努は京兆を棄てて朝に還ろうとし、同知乾州軍州事の保義軍提控苟琪を留めてこれを守らせた。慶善努は閿郷に至る道中、哀宗は近侍の費摩齊錦を遣わして黄陵岡従宜(その場での対応)を授けたが聴かず入見した。まもなく図克坦烏登に代わって行省事を徐州で行った。天興元年(1232年)正月、徐から入援し精鋭1万5千を選んで徐帥の完顔鄂倫と共にこれを統べ帰徳に趨こうとした。義勝軍総領の侯進・杜政・張興らはその部3千人を率いて大兵に降った。慶善努は睢州に留まり3日敢えて進まず、大兵がまさに至ると聞いてこの州が守れないと懼れ、退いて帰徳を保った。
- 2月、楊駅店に行き至った際、薩納台軍に遭い遂に潰えた。鄂倫は戦死し、慶善努は馬が躓いて捕らえられた。ただ元帥の郭恩・都尉の烏陵阿阿敦が3百余人を率いて帰徳に走った。大兵は一馬に慶善努を載せ擁迫して行った。道中、真定の史帥に会い、承立は「君は誰か」と問うと、史帥は「私は真定五路の史万戸です」と言った。承立は「これは天沢か」と述べると「その通りです」と答えた。承立は「我が国はすでに残破している、公はこれ以上、生霊のことを念じてほしい」と述べた。大帥の特黙岱に会うに及んでこれを誘って京城を招かせようとしたが従わず、また偃蹇(頑固で従わない)不屈であり、左右が刀でその足を斫って折ってもなお降らず、すぐに殺された。議者は承立がしばしば敗れその軍職を解かれなかったことは死に余りある責があるとしながらも、死をもって国に報いることができたのはまた称するに足りると言った。
- 当初、睢州刺史の張文寿は大兵がまさに至ると聞き旁縣の居民を城に遷し大いに芻粟を集めたが、固守の意なく日夜自ら走ることを謀っていた。まもなく承立が入援すると聞くと、すぐに州事をその僚佐に付し、徐兵に応援すると託して夜に関を開き家を挈げて帰徳に走った。慶善努はこれを行部郎中として楊駅で死んだとみなした。まもなく大兵は睢州を囲んだが、主将がいないため破残すること甚だしかった。鄂倫は丞相薩布の姪であり、元光間の例では諸帥をもって総領とされていたが、鄂倫は丞相(薩布)の縁故によって独り罷めなかった。金朝は近族を防ぎ疎属を用いた、故に博索・承立・鄂倫の輩は皆腹心としてこれに倚っていた。
史論
- 賛に曰く、官努は素行が反側(不安定)で、たちまち南、たちまち北するのは壟斷(利益を独占して勝手にする者)の如くであった。哀宗は一旦これを腹心として倚ったが、終にはこれに制せられ、照碧堂の処は幽囚と何ら異ならなかった。その事は梁の武侯(梁の武帝と侯景の乱)と大同にして小異である。図克坦烏登・慶善努は将たること皆貪であったため、しばしば敗を取ったのは宜なるかな。紐勒琿は大した失行もないのに官努によって死んだのに、哀宗はなおその罪を暴いた、寃であろう。