哀宗初期の直言と自尽
- 持嘉烏新、字は大用、上京の人。父の穆昆を襲うべきであったが就くことを願わず、明昌5年(1194年)策論進士に及第した。後に選ばれて尚書省令史・吏部主事・監察御史となった。諸王駙馬が京師に至って諸物を和買し朝廷の体を失うと言い、詔で禁止された。鎮南将軍節度使に遷り、息州刺史として鞠場を耕して禾を種えると両禾が合穂したことを朝廷に進めたところ特に詔で襃諭された。丹州に改まり鄭州防禦使に遷り権許州統軍使とした。丞相の高汝礪はかつてその才が宰相たるに堪えると薦めた。元光2年(1223年)正月、戸部侍郎に召され、まもなく権参知政事となり、2月戸部尚書とされ権職はそのままとした。3月参知政事兼修国史を拝命し、詔で近臣に「烏新は資稟純質で事を倚任できる、しかもその性は孝であり、朕は今これを相とする、国家は必ず望みがある、汝らはこれに倣うべし」と諭した。
- 正大元年(1224年)5月、尚書右丞を拝命した。哀宗が宮室を修めようとした際、烏新は極諫し「臥薪嘗胆」の言をもって述べたところ、上は悚然としてこれに従った。同判睦親府の内族薩哈連は中外に交結し久しく禁近にあった、哀宗は太子であった時、これに擁立の功があり、これによって頗るその言に惑わされさらに信任を深めていた。台諫はしばしばこれを言ったが、太后がかつて戒め「上の騎鞠や音楽はすべて汝が教えたことだ、再び犯せば汝を必ず杖する」と敕したが、哀宗はついに彼を去らせることができなかった。烏新は「薩哈連は姦諛の最たるもので日々天子の左右にいる、社稷の福にあらず」と諫めると、上は悔悟して中京留守に外任させた。朝論はこれを快とした。5年(1228年)、致仕して汴中に居した。崔立の変の翌日、家人を召してその後事を託し、睢陽を望んで慟哭し、弓弦をもって自縊して死んだ。享年63。一子の名は棟、兵間で戦没した。弟は秉甫、字は正之。
史論
- 賛に曰く、聶天驥は平素の履み(品行)が清慎で、持嘉烏新は天資が忠諒であった、治世にあれば皆良臣たるに足りるはずが、不幸にして乱離の朝に仕え、死を得ることを願いとするに至った、哀しむべきことである。