弑逆と暴虐の末路
- 崔立、将陵の人。少くして貧しく無行、かつて寺僧のために鈸鼓を負う者であった。兵乱に乗じて上党公開の都統・提控となり、階を積んで太原知府に遥領した。正大初、仕官を求めて選曹に駁され、いつも三品に至らないことを恨みとしていた。囲城中、安平都尉を授かった。天興元年(1232年)冬12月、上が親出師した際、西面元帥を授けられた。性は淫姣(好色)で常に乱を思いその欲を快くしようとしていた。薬安国という者は管州の人、年20余で勇力があり、かつて嵐州招撫使に任じたが罪により開封の獄に繋がれ、出獄後は貧しく食も得られなかった。立はまさに変を起こそうとし密かにこれを結納した。安国は徤啖(大食い)で日々彼を魚で飽かせ、遂に共にこれを謀った。先に家族を西城に置き、事が成功しなければこれを挈げて逃げようとした。日々都尉の楊善と省中に入って動静を伺い、布置が定まると善を早食(朝食)に招いて殺した。
- 2年(1233年)正月、遂に甲卒2百を率いて省門を撞破し内に入った。二相は変を聞いて趨り出、立は剣を抜いて「京城は危困している、二公はどう処するつもりか」と言った。二相は「事は当然よく議すべき」と述べたが、立は顧みずその党の張信之・富珠哩昌格を麾いて省を出させ、二相は遂に殺された。東華門に馳せ往く道で点検の温都阿里に遭いその衷甲を見て殺した。すぐに百姓に「私は二相が門を閉じ無謀であったためこれを殺した、汝ら一城の生霊のためだ」と諭すと、衆は皆快しとした。この日、御史大夫の費摩阿固岱、諫議大夫左右司郎中の烏克遜納新、左副点検の完顔阿薩爾、奉御の莽格、講議の富察琦、戸部尚書の完顔珠赫は皆死んだ。立は省中に還り百官を集めて立てるべき者を議した。
- 立は「衛紹王の太子の従恪とその妹の公主は北兵の中にいる、これを立てるべき」と述べ、すぐにその党の韓鐸に太后の命として従恪を召させた。須臾にして入り、太后の誥命をもって梁王監国とすると、百官は拝舞し山呼した。従恪はこれを受け、遂に二相の佩びていた虎符を送り蘇布特に赴いて納款させ、凡そ除拝は皆監国を口実にした。立は自ら太師軍馬都元帥尚書令鄭王と称し出入りは輿を御し乗り、その妻を王妃と称し、弟の倚を平章政事、侃を殿前都点検とした。その党の富珠哩昌格を御史中丞、韓鐸を副元帥兼知開封府事、折希顔・薬安国・張軍努を並びに元帥、師肅を左右司郎中、賈良を兵部郎中兼右司都事とし、内府の事は皆これらの者が主った。
- 当初、立は安国の勇を仮りて事を済まそうとしていたが、ここに至って再びこれを忌み、安国が一都尉の夫人を納れたと聞くとその違約を数えてこれを斬った。壬申、蘇布特は青城に至り、立は服御の衣・儀衛をもって往きこれに見えると大帥は喜んで酒を飲ませ、立は父に事えるようにこれに事えた。既に還ると悉く京城の楼櫓を焼き、火が起こると大帥は大いに喜び初めてその真の降伏を信じた。立は軍前の名目で随駕官吏の家属を索めると称し省中に聚めさせ、人ごとに自ら閲させたが、日々乱すること数人でもなお足りないと思われるほどであった。また城中で嫁娶を禁じ一女のために数人を殺すことすらあった。まもなく梁王及び宗室近族を宮中に置き腹心の者にこれを守らせ、その出入りを限り、荊王府を私第とし内府の珍玩を取ってこれを充実させた。
- 2月乙酉、天子の袞冕・后服をもって上進した。また城内の金銀を括し捜索・薫灌(薫蒸拷問)・訊掠は慘酷で百苦を備え至った。郕国夫人及び内侍の高祐、京民の李民望らの属は皆杖下に死んだ。温都衛尉の親属8人は楚毒(拷問)に耐えかね皆自尽した。博索の夫人、右丞の李蹊の妻子は皆掠われて死んだ。同悪相い済(協力して悪事をなす)者は人を仇の如く見なし必ず報いることを期して已(や)まなかった。人々はこっそりと語り合った、攻城後7、8日の中、諸門から出た葬送は開封府の計算で凡そ百余万人に及び、その数に早く加われなかったことを恨みつつこの不幸に遭ったのだ、と。
- 立は時にその妻と共に宮に入り、両宮の下賜品は勝計できないほどであった。立はこれによって太后に書を作らせ天時人事を陳べ、皇孫の乳母を遣わして帰徳に招かせようとした。当時の昌進(僭上進取)の徒は争って劉齊の故事に援用し非分の望みを冀う者が肩を比べ足を接するほどであった。3月壬辰、立は両宮・梁王・荊王及び諸宗室をもって皆青城に赴かせた。甲午、北行させ、立の妻の王氏は仗衛を備えて両宮を送り開陽門に至った。この日、宮車37両、太后が先、中宮がこれに次ぎ、妃嬪がまた次ぎ、宗族の男女は凡そ5百余口、次に三教(儒仏道)・医流・工匠・繍女を取って皆北に赴かせた。
- 4月、北兵が城に入った。立はこの時城外にいたが、兵は先にその家に入りその妻妾・宝玉を取って出た。立は帰ると大慟し、どうしようもなかった。李琦なる者は山西の人で都尉となり、陳州で鈕祜祿納新と共に行省事をしていたが、陳州の変で京に入り崔立に附いた。妹婿の折希顔は瓜爾佳元の妻を娶ったが年20余で姿色があった。立は初め随駕官の家属を拘留していたが、妻の輿(駕籠)は病であったため往って免れた。琦がこれを娶ると、後にその美を言う者があり、立はこれを強奪しようとし、琦は毎に立が人の妻を奪おうとするたびにその夫をわざと遠く出張させることを知り、ある日、琦を京の外に差出させると、琦は妻を自ら随えるということをこのように再三行った。立は遂に琦を殺そうとした。琦はまた度々折希顔に折辱(辱め)られ、遂に首謀して立を殺すことを謀った。
- 李伯淵なる者は寳坻の人、もと安平都尉司千戸であり、姿容が美しく深沈で謀があり、毎に立の不道に憤りその義をもってこれを殺そうと欲していた。李斉諾なる者は燕の人でかつて軍功をもって遥かに京兆府判を領した。壬辰(正大9年、実際は天興元年)冬、車駕東狩の際、都尉として権東面元帥となった。立は初め反した際、斉諾が旧来敵体(対等の地位)であったためこれを頗る貌敬(表面的に敬う)していたが、数月の後、勢いがすでに固まると斉諾を部曲のようにみなすようになった。斉諾は積って心中平らかでなくなり、しばしば怨言を出していた。ここに至って琦らと合流した。3年(1234年)6月甲午、近境に宋軍がいるとの噂を伝え、伯淵らは表向きは立と共にこれに備える策を謀った。翌日晩、伯淵らは外城の封丘門を焼いて立を警動させた。この夜、立は殊に不安で一夕に何度も臥起した。夜明けに伯淵らは自ら来て立に火を見ようと約した。
- 立は苑秀・折希顔と数騎で往き、諭令で京城の民の15歳以上70歳以下の男子を皆太廟街に集めた。すでに還り梳行街に至ると、伯淵は立を二王府に送ろうとしたが立は数度これを辞退した。伯淵は必ず自ら送ろうとし、立は疑わず倉卒の中、馬上でつかまれ、立は「お前は私を殺そうとするのか」と顧みて言った。伯淵は「殺すのに何の妨げがあろうか」と言い、すぐに七首(匕首)を出して横に刺し、洞(貫通)して立の手が彼を抱いていた処に中り、再び刺すと立は馬から墜ちて死んだ。伏兵が起こり元帥の洪果薩哈は苑秀・折希顔を殺した。後から来た者は立が墜馬したのを見て誰かと争っていると思い前に出て解こうとしたが、随って軍士に斬られ傷を受けて梁門の外に走ったが追及されて斬られた。
- 伯淵は立の屍を馬尾に繋ぎ内庭に至り衆に号して「立は殺害・刼奪・烝淫・暴虐、大逆不道であった、古今にこのようなことはない、これを殺すべきである、万口が斉しくこれに応じたが、寸斬(切り刻む)してもなお称え尽くせない」と述べ、遂に立の首を梟して承天門を望んで哀宗を祭った。伯淵以下、軍民は皆慟哭し、あるいはその心を剖いて生きたまま噉(食べる)者もあった。三つの死体は闕前の槐樹に掛けられたが、樹が忽然として抜けたので、樹には霊があってやはりこれに汚されることを厭ったのだと言われた。まもなく立が宮中に珍玩を匿していたと告げる者があり、遂にその家を籍し、その妻の王花兒を丞相の鎮海の帳下士に賜った。
- 当初、立の変の際、前護衛の布希舒嚕は祖宗の御容(肖像)を負って先に蔡に走り、前御史中丞の富察世達、西面元帥の博斯呼はその家を挈げてまた自ら蔡に脱出した。7月己巳、世達を尚書吏部侍郎権行六部尚書とした。世達はかつて左司郎中同簽樞密院事として益政院官に充てられ皆上意に称っていた。上が帰徳に幸した際、世達を遣わして陳州の糧運を督させたが、陳州が変ずると世達もまた脅従した。まもなく間道を経て汴に至り、ここに至って徒歩で行在に赴いた。上はその旧の縁により録用した。左右司官はこれによって「博斯呼・舒嚕もまた任用すべき」と奏したが、上は「世達が曲従したのはやむを得なかったことに出るとはいえ、朕はなお少し資級を降しこれを薄罰とする、あの博斯呼は軍の一面を掌り、舒嚕は九重(宮中)を宿衛していながら、崔立の変には未だかつて一矢を発したと聞かず束手して人に従った、今来帰したとしても不死をもって遇するにとどめて足りる恩を示すことになる、どうして世達と等しくできようか」と述べた。博斯呼は老いていたのでその子を量って用いた。舒嚕はただ御容を負った労に酬いるべきとされ、まもなく博斯呼を北門都尉とし、その子を本軍都統とし、舒嚕は再び護衛に充てられた。世達、字は正夫、泰和3年(1203年)進士。
史論
- 論に曰く、崔立が納款して府庫を開き民を籍して大朝(大元)の命を待ったのならよかったであろう。しかし時に乗じて僭竊し大いに淫虐を肆にし、徴索横暴でしばしば大軍に供備することを口実にし、欲を逞しくすることは己に由り、怨みを歛めて国に帰した、その罪は誅に容れられない。しかもその志は劉豫の事を要求(模倣)しようとしていた、我が大朝がどうして金人に効う者を許すであろうか。金は人の主を俘え人の臣を帝とした、百年後に果たして崔立の狂謀を啓いて青城の烈禍を成すに至った。曾子は「戒めよ戒めよ、汝より出ずるものは汝に反る」と言った、どうして信じないことがあろうか。