金史卷一百十五 列傳第五十三 完顏納新

京師留守と崔立の変での殉死

  • 完顔納新、字は正甫、蘇哷の弟である。策論進士に及第し、清要の官を歴任した。正大3年(1226年)8月、翰林直学士から益政院説書官に充てられ、5年(1228年)、吏部侍郎に転じた。監察御史の烏庫哩薩喇勒が近侍の張文寿・仁寿・李麟が敵帥の饋遺を受けたことを劾し、詔で納新にこれを鞫問させると姦状を得た。上はその罪を曲げて赦したが、皆斥け去った。朝論はこれを快とした。9月、侍講学士に改まり御史大夫として大元に奉使し龍駒河に至り太宗皇帝に朝見した。12月に還り、翌年6月、吏部尚書に遷り再び往いた。8年(1231年)春、還り、朝廷はその労をもって参知政事を拝命させた。
  • 天興元年(1232年)春、大兵が鄭州の海灘寺に駐まり使者を遣わして哀宗の降伏を招いた際、再び納新を遣わして和を乞うたが許されず、汴の攻めがますます急になった。汴は数月囲みを受け倉庫は匱乏し、武仙らを召して入援させたが至らず、哀宗は懼れて曹王額爾克を出質させ攻めを罷めることを請うた。冬10月、上は親出捍禦を議し、納新を参知政事兼樞密副使、完顔薩尼雅布を樞密副使兼知開封府権参知政事として諸軍を総べ京師を留守させることとした。翰林学士承旨の烏克遜布に諸王府を提控させ同判大睦親府事兼都点検の内族哈昭に宮掖の事を管させ、左副点検の完顔阿薩爾・右副点検の温都阿里にこれを副えさせた。戸部尚書の完顔珠赫に裏城四面都総領を兼ねさせ、御史大夫の費摩阿固岱に鎮撫軍民都弾圧を兼ねさせ、諫議大夫近侍行省左右司郎中の烏克遜納新に知宮省事を兼ねさせた。また博斯呼を外城東面元帥、珠嘉耀珠を南面元帥、崔立を西面元帥、富珠哩邁努を北面元帥とし、乙酉に除拝が定まり京城をこれに付した。
  • また戸部侍郎の刁璧を安撫副使として招撫司を総べ京外の糧斛を規運させ、講議所を設けて陳言文字を受け、大理卿の納哈塔徳輝・戸部尚書の仲平・中京副留守の愛実にその事を総べさせた。12月辛丑、上は京を出て絳紗袍を服し馬に乗り導從はいつも通りの儀であった。留守官及び京城の父老は城外に至るまで従い辞を奉り、詔で撫諭し、なお鞭で揖した。蘇布特は上がすでに出たと聞き再び兵を会して汴を囲んだ。当初、上は東面元帥の李辛が跋扈して怨言を出したことにより罷めて兵部侍郎とし、出る際に密かに納新らに諭してこれを羈縶させるようにしていた。上がすでに行ってから納新らが辛を召したが、辛は懼れて出降を謀り馬を棄てて城を踰えて走ろうとしたが、納新らは人を遣わしてこれを追及し省門で斬った。
  • 汴民は上が親出師するにあたり日々捷報を聴かされ、且つ二相が持重してくれることにより幸いに無事であると思っていたが、まもなく軍が敗れ衛州から蒼黄として帰徳に走ったと聞き、民は大いに恐れて救援に来られないのだと考えた。この時、汴京は内外が通じず米は一升で銭二百、百姓は糧が尽き餓死者が相望み、縉紳士女の多くが市で乞う有様となり、自らその妻子を食べる者すらあった。諸皮の器物に至るまで皆煮て食べた。貴家の第宅・市楼肆館は皆撤して炊事に用いられた。帰徳に使者を遣わして両宮を迎えると人情はますます不安になった。ここに民間で荊王を立てて監国とし城をもって帰順しようとする議が生まれたが、二相は皆これを知らなかった。
  • 天興2年(1233年)正月丙寅、省令史の許安国は講議所に「古に大疑あれば卿士に謀り庶人に謀ると言う、今の事勢はこの通りである、百官及び僧道士庶を集め社稷を保ち生霊を活かす計を問うべきだ」と語った。左司都事の元好問は安国の言を納新に告げると、納新は「この論は甚だ佳い、副樞と議すべき」と述べた。副樞もまたこれを然りとした。好問は「車駕が京を出てから今すでに20日ばかり、また使者を遣わして両宮を迎えており、民間は洶洶(動揺)としていずれも国家が京城を棄てようとしていると言っている、相公はどう処されるおつもりか」と述べると、薩尼雅布は「私ら二人はただ一死あるのみだ」と述べた。好問は「死は難しくない、誠に社稷を安んじ生霊を救ってこそ死ぬべきだ、そうでなければ、ただ一身が五十紅(軍隊の一部隊)の納軍を飽かせようとするだけで、これも死と言えるのか」と述べた。
  • 薩尼雅布は款言(本心)で「今日はただ我ら二人のみ、何を言っても不可はない」と述べると、好問は「中外の人の言うところでは、二王を立てて監国とし両宮及び皇族を全うしたいと言っている」と述べた。薩尼雅布は「私は分かった、私は分かった」と述べ、すぐに京城の百官を召すよう命じた。翌日、皆省中に集まり事勢が危急でどうすべきかを諭した。父老7人がいて詞を陳べたが、二相は好問にその詞を受けさせ告げさせた。納新は顧みて「これもまたこの事のためか」と言い、さらに副樞に「この事の謀議はもう何日か」と問うと、薩尼雅布は指を屈して「7日だ」と述べた。納新は「帰徳の使いはまだ発っていない、慎んで漏らすな」と述べた。ある者は「この時、外の囲みは解けず陥穽にいるようであった、議者は荊王を推立して城をもって出降させようとしたが、これもまた紀季が齊に入った義であり、況や北兵の中にはすでに曹王がいる」と言った。衆は憤り二人(薩尼雅布・納新)には策がなく、ただ死守するのみだと言った。忽然として京城の士庶を召して事を計ると聞き、納新は拱立して言葉がなかったが、薩尼雅布独り反復してこれを申諭し、国家がここに至ってはどうしようもない、行うことができるものは皆共に議すべきだと述べ、しかも涕泣し続けた。
  • 翌日戊辰、西面元帥の崔立とその党の富珠哩昌格・韓鐸・薬安国らが変を起こし、甲卒2百を率いて刀を横たえ省中に入り剣を抜いて二相を指して「京城は危困すでに極まっている、二公は坐視して百姓が餓死しても恬(平然)として憂慮しないのはなぜか」と言った。二相は大いに驚き「汝らに事あればよく議すべきなのに、なぜこのように急なのか」と述べたが、立はその党を麾いて先に薩尼雅布を殺し、次に納新及び左司郎中の納哈塔徳輝らを殺した。余は崔立伝に詳しい。劉祁は「金は南渡後、宰執たる者に恢復の謀がなく、事に臨めば低言緩語をならって互いに推譲することを『相体を養う』としていた。毎に四方の災異・民間の疾苦を奏そうとするたびに『恐らく聖主の心を困らせる』と相い語り、事が危処に至るたびに輒く罷散し『再議を俟つ』と言ってはまた同じことを繰り返した。あるいは改革を言う者があれば輒く『生事』としてこれを抑えた。故に用いる者は必ず愞熟(柔弱で慣れた)で鋒鋩のない易制の者を選んで用い、毎に北兵が境に圧すたびに君臣は相対して泣き下るか、あるいは殿上で長吁を発するのみであった。兵が退くと大いに具を張って黄閣中で会飲していた。因循苟且(その場しのぎ)でついに亡国に至った」と言い、「また渾厚少文(重厚だが才知に乏しい)な者を多く取って台鼎(宰相の位)に置いた。宣宗はかつて丞相布薩齊錦を責めて『近来朝廷の紀綱はどこにあるのか』と問うたが、齊錦は答えられず、退いて郎官に『上は紀綱がどこにあるかを問われた、お前らは自来何ゆえいまだかつて紀綱を私に見せなかったのか』と言った、故に正人君子は多く用いられず、たとえ用いられても久しくならないうちにすぐに退けられた」と述べている。祁、字は京叔、渾源の人。

史論

  • 賛に曰く、劉京叔(祁)の「帰潜志」と元裕之(好問)の「壬辰雑編」の二書は、微かな異同があるとはいえ、金末喪乱の事にはなお徴すべきものがある。哀宗は北で禦ぐに孤城と弱卒をもってこれを納新・薩尼雅布の二人に託した、難であったと言えよう。とはいえ即墨には安平君があり玉璧には韋孝寛がいた(守り抜いた例がある)、必ずこれに処する方法があったはずである。