対宋戦功と国難期の宰相
- 完顔薩布、始祖の弟の博和哩の後である。状貌は魁偉沈厚で大略があった。初め親衛軍に補せられ、章宗時に護衛に選充された。明昌元年(1190年)8月、宿直将軍から寧化州刺史となり、まもなく武衛軍副都指揮使に遷った。泰和2年(1202年)、呼爾哈路節度使に転じ、4年(1204年)武衛軍都指揮使に昇進し、まもなく殿前左副都点検となった。平章布薩揆の伐宋に右翼都統として従い、6年(1206年)6月、宋将の皇甫斌が歩騎数万を率いさせ確山・褒信から分路して蔡を侵した際、郭倬・李爽の敗を聞いて溱水を阻んで進まなかった。ここで揆は薩布及び副統の尚厩局使布希万努・深州刺史の完顔達希布らに騎兵7千を率いさせてこれを撃たせた。
- ちょうど溱水が漲り宋兵は橋を扼して拒んだが、薩布らは潜師夜出を謀り、達希布は騎兵で水を渉ってその右に出、万努らはその左に出、薩布はその軍が渡り終わるのを図って副統の阿嚕岱と共に精兵を率いて直に橋に趨くと、宋兵はこれを遏することができず、明けるころには大潰した。万努は兵で真陽路を断ち、諸軍は追撃して陳沢に至り首2万級を斬り戦馬・雑畜千余を獲て兵を還した。爵一級を進められ金幣を甚だ厚く賜った。貞祐初、同簽樞密院事を拝命し、3年(1215年)、知臨洮府事兼陝西路副統軍に遷った。皇帝は召見して「卿は先に西京にあった時尽心して国のためにし、華州を治めた時もかつて宣力した、今始めて三品に及ぶ、特に卿にこの職を升授したのは、陝西安撫副使の烏庫哩揚珠が安撫使の達希布の節制に遵わず多く敗事を致したためであり、今すでに揚珠を責罰した、卿にこれを副えるよう命じるからには、ますます尽心を務めよ、もしそうでなければ再び別に議し行うことになろう」と諭した。8月、知鳳翔府事兼本路兵馬都総管に、まもなく元帥右都監となった。
- 4年(1216年)4月、兵を調して宋の木陡関を抜いた。5月、夏人が来羌城の境の河で折橋を修め兵で守護していたのを、薩布は兵を遣わしてこれを焼いた。8月、夏人が結耶觜川を寇すると兵を遣わしてこれを撃退し、まもなく再びその衆を車兒堡で破った。興定元年(1217年)2月、簽樞密院事に転じた。時に皇帝は宋の歳幣が至らずまた侵盗が復されたことにより薩布に討伐を詔した。4月、宋人と信陽で戦い首8千を斬り統制の周光を生擒し馬数千・牛羊5百を獲た。また宋人に隴山・七里山等の処で遭い前後6戦、斬獲は甚だ多かった。まもなく兵を遣わして淮を渡り中渡店を略し光山・羅山・定城等の県を抜き光州の両関を破り首万余を斬り馬牛及び布を獲て将士に分給し、詔で玉兎鶻一・内府重幣十端を賜った。
- 7月、上章して「京都は天下の根本であり、その城池は宜しく極めて高く深くすべきである。今、外城は堅固であるが周りは60余里で倉卒に警あれば拒守しにくい。竊かに見るに城中に子城の故基がある、農隙にこれを築いて新しくし国家長久の利とすべきである、及び凡そ河南・陝西の州府もまた量って修すことを乞う」と述べこれに従われた。2年(1218年)正月、宋人を鉄山及び上石店・唐県で破った。4月、兼西南等路招討使・西安軍節度使・陝州管内観察使に進み、詔を奉じて棗陽を攻めた際、宋は兵3万を出して拒戦したが稍誘撃すると宋兵は敗走し城が諸濠に迫って殺され及び溺死した者3千余人、遂に進兵してこれを囲むと宋の騎兵千・歩卒万が来援したが逆戦してこれをまた大敗させた。7月、行山東西路兵馬都総管兼武寧軍節度使に遷った。
- 3年(1219年)2月、宋の白石関を奪いその守者千余人を殺し鎧仗千を計り獲た。3月、宋兵を七口倉で破り、また宋の小鶻倉を奪い糧9千石・兵仗30余万を獲た。この月、再び宋兵3千を石鶻崖で敗った。4年(1220年)3月、詔を奉じ河北に出兵し晋安権府事の皇甫珪・正平県令の席永堅が5千余人を率いて来帰し糧万石を得た。この時、河北の各所の義軍官民が堅く堡塞を守り力戦して敵を破る者が多く、薩布は「この類は忠赤(忠誠)で嘉すべきだ、もし旌酬しなければ人心を激すことができない、朝廷が量って官賞を加えることを乞う、万一敵兵が再び来れば将士は争って先に効用しようとするだろう」と上章した。皇帝は奏を覧て樞密官を召し「朕と卿らもかつてこの議があったが、彼の地の事勢を見なかったため一に帥臣の規画に聴していた、今この奏を観るに甚だ朕の意に称う、有司にこれを遷賞させよ」と述べた。この年4月、樞密副使に遷った。
- 5年(1221年)5月、詔を奉じて兵を引き河東を救い戦うたびに屡々捷ち晋安・平陽の二城を復した。監察御史がその士衆を検束できず虜掠を縦にしたと言ったが、皇帝は功があることにより問わないよう詔した。元光2年(1223年)5月、河中を復した。6月、詔で宰臣に「樞密副使薩布は本来皇族で先世偶然に脱遺(本流から外れた分家)となったが、朕はその旧人であることを重んじ、しかも久しく王家に労してきた、すでに睦親府に命じて属籍に附させている、卿らはよろしくこれを知るべし」と諭した。正大元年(1224年)5月、平章政事を拝命し、まもなく尚書右丞相に転じた。もとより参知政事の李蹊と相い得(気が合い)、蹊が公罪により汴京の京洛の尹に外任した際、薩布はしばしば蹊を唐の魏徴に比べて薦め、これにより蹊は再び相位に復すことができた。3年(1226年)、宣宗廟が成り禘祭の際に配享功臣を議した際、論者は紛紜としたが、薩布は大礼使として丞相福興が王事に死んだこと、齊錦が謹んで河南を守って大駕を迎えた功をもって配享すべきと述べ、議が定まった。
- 4年(1227年)、吏部郎中の楊居仁が封事を上げて宰相は人を択ぶべしと言った際、皇帝は大臣に「相府がその人でないなら御史・諫官が当然言うべきだ、あの吏曹(吏部)がどうしてこれに関与するのか」と語ると、尚書左丞の延扎舒嚕はもとより居仁を嫉んでおりまた僭とみなしたが、薩布は徐に「天下に道あれば庶人でも猶献言できると聞く、況や郎官においておや。陛下は寛弘の徳をもって、応じ言うべきでない者にも言わせている、その言が用いるべきなら行い、用いるべきでなければ必ずしも臣下に示す必要はない」と進言し、皇帝はこれを是とした。居仁、字は行之、大興の人、泰和2年(1202年)進士。天興末、北渡の時、家を挙げて黄河に投じて死んだ。
- 5年(1228年)、尚書省を京兆で行った際、都事の商衡に「古来宰相は必ず文人を用いるのは、その相為る道を知るためである、薩布は何を知っているのか、この位に居らせて、私は他日史官がある時にある人を相としたが国はすなわち滅んだと書くことを恐れる」と語り、すぐに衡に致仕を乞う表を草させた。平章政事の侯摯は朴直で蘊藉(含蓄)がなく朝廷にこれを鄙んじられていたが、天興元年(1232年)、兵事が急に応じて自ら致仕から起用され大司農となり、まもなく再び致仕、徐州で尚書省を行おうとする者は誰もおらず、再び摯を平章政事に拝命した。都堂の会議で摯は国勢が支えられないことをもって数事を論じ「ただ、もう擘画(計画)することがない」と述べたところ、博索は怒って「平章がこの言を出すとは、国家に何を望むというのか」と述べ、意図は摯を置き去りにする(罪に問う)ことにあった。薩布は博索を顧みて「侯相の言は甚だ当を得ている」と述べたため、博索は憤りを含んで散会した。この時、大元の兵が汴に迫り、博索は他日講和・出質を策すればまさに首相こそが行うべきだと考え、力めて薩布に省事を領させ左丞相を拝命させたが、まもなく再び致仕した。
- この年冬、哀宗が帰徳に遷った際、起復して右丞相樞密使兼左副元帥・寿国公に封じられ扈従した。河北の兵潰にも従って歸徳に至り、再び致仕を請うた。2年(1233年)7月、再び詔で尚書省事を徐州で行うことになった。既に至ると州が糧に乏しいことにより郎中の王万慶を遣わして徐・宿・霊璧の兵を会して源州を取らせ元帥の郭恩にこれを統べさせた。9月、恩が源州城下に至り敗績して還った。再び卓翼に豊県を攻めさせこれを破った。当初、郭恩は敗を恥じて疾を託して行かず、密かに河北の諸叛将の郭頁嚕輩と共に国に帰る(大元に帰順する)ことを謀り、用安に元帥の商瑀父子及び元帥左都監赫舍哩算卓を執らえて併せて殺し、また都尉の額哲埒・訥尼瑪哈・和勒端・富察世謀・元帥右都監の李居仁・員外郎の常忠を逐い、これより防城と守門の者は皆河北義軍で出入り自恣となった。
- 薩布は先に疽を病んで久しく事を視ておらず、賊党に重ねて制せられ束手して命を聴くのみであった。当初、源・徐が交攻して郭頁嚕は毎に疾を辞して行かなかったため、薩布は遂に頁嚕を徐州節度副使兼防城都総領に授けたが、実はこれで彼を羈束したのであった。頁嚕は既に徐州が空虚であることを見て源州の叛将の麻琮と内外相応の計を約し、10月甲申の詰旦(夜明け)に徐州を襲破した。この時、蔡(州)はすでに囲まれており、徐州の将士は朝命が阻絶され且つ大兵に迫られたことにより出降を議したが、薩布はこれに従わず、執らえられることを恐れてここに至り河に投じて死のうとしたが30余歩流れても沈まず、軍士がこれを援けて出した。また5日後、州第で自縊した。麻琮は遂に人を遣わして州を大元に降した。子の安春は正大中、護衛に充てられ宗室の女と姦した罪に座して杖百に処され許州に収係された。大兵が至ると安春は南門を開いて降り、京師攻撃に従い、曹王が出質すると朝臣及び近衛でこれに従って出た者もあったが、安春は極口大罵し、指斥に至った。この冬、再び北中から逃れ帰り、詔で押送させ省に問わせた。
- 安春は近侍に随って階を登り涕を揮う様子を演じ、詔で丞相に問うと「安春は北中から来た、丞相はよく彼中の息耗(情報)を問うべきだ」とあり、薩布は附奏して「老臣は不幸にしてこの賊を生んだ、事がここに至ってもなお手ずからこれを刃さないことを恨む、彼と対面して語ることに忍びられようか」と述べた。12月、車駕が東狩し留後の二相が開封に赴いて彼を擒えさせ獄中で斬った。
史論
- 賛に曰く、薩布は臨陣対壘には将略があり、鈞衡(宰相)を秉るに至っては、楊居仁・侯摯らを救解した言を観るに、殊に相度があると言えよう。安春の事には特に古人の風があった。晩に老病で叛臣に受制されるに至ったのは、匹夫匹婦の節を修めるようなことであった。これはなお大厦が将に傾こうとしているのを一木の支えられるものではないのと同じである。悲しいことである。