河中・薛陽の陥落と近侍監戦の弊
- 完顔額爾克は内族である。当時、額爾克という名は二人おり、一人は護衛出身の「草火額爾克」(かつて賊を捕らえるたびに草火でこれを焼いたことから)、一人は「板子額爾克」(かつて官中の牙牌報班齊を「板子」と誤ったことから、時人がこれをもって各々あだ名した)。正大8年(1231年)9月、大兵が河中を攻めた。当初、宣宗が遷都を議した際、朝臣は河中に遷るべきだとし「河中は関陝を背負い5路の士馬は全盛、南は大河に阻まれ行台を建てて右翼となし得る、前には絳陽・平陽・太原の3大鎮があり敵兵は軽々には入れず、3鎮郡県の民を山寨に聚め、敵が至れば昼攻夜劫の計をなし重軍を中条に屯すれば行在は万全の固まりを得る」と言ったが、議を主る者は河中が河朔にあり宮室もないため汴梁に及ばないとして議は寝された。
- 宣宗が河南に遷って2、3年の後、詔で元帥都監の内族阿嚕岱に帥府事を行わせたが、阿嚕岱は恇怯で軍を用いることができず、民の膏血を竭くして浚築の計をなしたがまもなく絳州が破れ、阿嚕岱はますます懼れ河中孤城は守れないと馳せ奏したところ、旨で親しく視てもし果たして守れなければ棄てて敵に資さないようにせよと命じられ、阿嚕岱は遂に河中を棄て民戸・官府を焼き払い1、2日で尽きた。まもなく河中は重鎮で国家の基本のある所であり、これを棄てるのは失策だ、もし敵に据えられれば大河の険にも我らは専恃できなくなると言う者があり、宣宗は悔悟し阿嚕岱を同州の獄に繋ぎ累ねて完復を命じたが、随守随破の状態が続き、ここに至って内族の両額爾克に兵3万を将いさせて守らせた。
- 大兵は宋の武休関を取ろうと謀り、まもなく鳳翔が破れ、睿宗(実際には拖雷)は騎兵3万を分けて散関に入り鳳州を攻破し、径ちに華陽を過ぎ洋州を屠り、武林関を攻め生山を開き焦崖を截り武休を出て東南に進み興元を囲んだ。興元の軍民は散走し沙窩で死んだ者は数十万に及んだ。軍を分けて西に、西軍は別路より沔州に入り大安軍路を取り、魚鼈山を開いて屋を撤して筏とし嘉陵江を渡って関堡に入り、江に沿って葭萌に趨き地を略して西水県に至って還った。東軍は興元・洋州の間に屯を止め、遂に饒風に趨いた。宋人は関を棄てて守らず、大兵はこれによって入ることができた。
- 当初、大兵は明年正月に南北軍を合わせて汴梁を攻めることを期していたため自ら河中を攻めていた。河中が急を告げると哈達布哈は王敢に歩兵1万を率いさせてこれを救わせた。12月、河中が破れた。当初、河中の主将は大兵がまさに至ることを知り軍力の不足を懼れ故城の半分を截って守らせた。攻撃を受けると行帳(大兵の陣営)は松楼を築くこと高さ200尺、下から城中を瞰め、土山・地穴が百道並び進み、11月に至って攻めはますます急となった。王敢の救軍が至ってから、軍士は殊死に戦うこと日夜休まなかったが、西北の楼櫓が全て尽き白戦(素手の戦い)してさらに半月、力尽きてついに陥落した。草額爾克は数十合戦った末に擒えられ、まもなく殺された。板額爾克は敗卒3千を率いて船を奪って走り北兵はこれを追及して北岸で鼓噪し矢石が雨の如く降った。数里の外に戦船があってこれを横截し、敗軍は過ぎることができなかったが、船中に「震天雷」なる火砲を賫した者がいて連発したところ砲火が明るく見え北軍の船に人はわずかしかおらず、力を尽くして横船を斫り開いて潼関に至ることができ、閿郷に入った。
- まもなく赦があり、将佐以下は額爾克が死をなさなかったことを責め、車で陝州に載せて杖二百を決した。議者は河中の城守が下らなかったのは徳順が力尽きて陥落したのと同じで戦の罪ではないと考え、故に額爾克の死を寃と思う者があった。当初、額爾克は元帥右監軍・邠涇総帥として権参知政事とし旨を奉じて邠・涇・鳳翔を往来して防秋していたが、奉御の陸爾が額爾克に対して監戦を行い、額爾克にとっては陸爾は孫の世代であるのに額爾克は動もすればこれに制せられ意は頗る不平で漸く猜隙を生じていた。7年(1230年)9月、京師に召され河中総帥に改め京兆節制を受けたが、この時陸爾も同じく召に赴き「額爾克は旨を奉じて防秋を往来すべきなのにかえって畏怯して避遠している、正しく朝旨と相違する」と言い、皇帝の意は頗る額爾克を罪とした。河中が陥落し苦戦力尽きて北兵が百倍でこれに臨んだ際、人は「たとえ守れなくても自ら贖うことができるはずなのに」と言ったが、ついに杖に処されて死んだ、これは皆陸爾が先に入れた言葉によるものであった。
- 劉祁は言う「金人は南渡の後、近侍の権は特に重くなった、蓋し宣宗はその人を用いることを好んで耳目とし百官を伺察させたためだ、故に奉御の輩は民間を採訪し『行路御史』と号され、あるいは一二事を得ればすぐに入奏し、皇帝はそれによって台官を漏泄の罪に問い皆罪に抵らせた。また方面の柄も将帥に委ねられているにもかかわらずさらに一奉御を軍中に差して『監戦』と号し、毎に機に臨んで変を制する際、多くこれに牽制され、敵に遇えばすぐに先に奔るため師はしばしば喪敗した。哀宗はこれに因って改めることができず、ついに亡国に至った」と。
史論
- 論に曰く、瓜爾佳実倫は善戦しながら法を犯すことを好み、故に廃される者はしばしばであった。晩に起用されて将となりついに難に死んだ。金運がまさに終わろうとする折にまた数竒(不運)の李広のような者を用いることになったのは、その乏絶もまた宜なるかな。草額爾克は力戦して死んだが、板額爾克もまた力戦しながら陣に死なずして刑に死んだ。論者は近侍が先に入れた言葉によるものだと言う。夫れ&KR0591;御(近侍・奉御)をもって軍を治めさせるのは既にその肘を掣くことになり、またその讒を信じて人を殺す、金はその政刑を失った。唐の亡びるは近監軍によるが、金もその轍を踏んだ、哀しいことである。