才筆と忠義の非業の死
- 韓玉、字は温甫。その先は相の人。曾祖の錫は金に仕え済南尹をもって致仕した。玉は明昌5年(1194年)、経義・辞賦の両科進士に及第し、翰林に入って応奉となった。応制で一日百篇の文をものし点を加えず、また「元勲伝」を作って称旨し、章宗は「勲臣は何の幸いあってこの家がその伝を作るを得たのか」と歎じた。泰和中、通州から潞水への漕渠を開通させ船運を都に至らせることを建言し、二階に躍進して同知陝西東路転運使事を授けられた。大安3年(1211年)、都城が囲みを受け夏人が邠・涇を連陥した際、陝西安撫司は玉を鳳翔総管判官として都統府とし、募軍旬日で1万人を得て夏人と戦いこれを破り牛馬千余頭を獲た。時に夏兵5万がまさに平涼を囲んでおり、また北原で戦い夏人は大軍が至ったと疑いこの夜解いて去った。
- 当路の者はその功を忌んで駅奏し玉が夏寇と謀があると讒言し、朝廷はこれを疑い、使者を遣わして玉に河平軍節度副使を授けつつその軍を覘わせた。先に華州の李公直が都城が隔絶されたことにより兵を挙げて入援しようと謀り、玉はその軍を頼りにできると恃んでまた勤王の挙を為そうとし、州郡に檄を伝えて「事はその本を推せば禍に基づくところがある、賊臣が姦賂を貪容したことに始まり、続いて二帥が権威を貪固したことによる」と述べ、また「糧を裹んで坐して費し生民の膏血を尽くし甲を棄てて復び来て国計の資儲を竭くし、権力を要して形勢を望み歳月を連ねて妻孥を守っている」と述べ、また「人は誰か死なずにいられよう、臣子には当然の道があるのに、今日に至って君親を顧みないことに忍びられようか、百年後の虚名を勿謂そ、ただ史臣に今日を聴かせるべし」と述べた。公直の一軍が行くこと日あって国朝の人がこれに違約し従わない者があれば軍法をもって処すことになっていたが、京兆統軍は公直が華州に拠って反したと言い、都統の楊珪を遣わして襲取させ、遂に極刑に処した。
- 公直はかつて書をもって玉に約したが、玉は預かり知らず、その書は安撫司に得られ、使者が玉の軍を覘い且つ公直の謀に預ったと疑われ、即座にその罪を実とした。玉は道が華州を出て被囚され郡学で死んだ。臨終に二詩を壁間に書き、士論はこれを冤とした。子の不疑、字は居之、父の死が非罪によるものであったことにより禄仕しないことを誓い、その父が臨終に手書したもの「これより冥路に赴くが吾が心は皓然としている、剛直の気は必ず沈まないから、児よ憂うなかれ、世は乱れ時は艱しくとも自ら努めて護れ、幽明は異なると雖もどうしてお前を見ないでいられようか」を蔵しており、読む者は惻然とした。