金史卷一百十 列傳第四十八 趙秉文

文才と直言、翰林の重鎮

  • 趙秉文、字は周臣、磁州滏陽の人。幼くして穎悟で読書は夙習のようであった。大定25年(1185年)進士に及第し、安塞簿に調され課最により邯鄲令に遷り、再び唐山に遷った。父の喪に服し、薦者により起復して南京路転運司都勾判官となった。明昌6年(1195年)、応奉翰林文字同知制誥に入り、宰相胥持国を罷めるべきで宗室守貞を大用すべきと上書し、章宗が召問すると言が頗る差異していたため、知大興府事の内族&KR3079;らに鞫させた。秉文は初め言うことを肯んじなかったが、その僕を詰り交遊を歴数させると、秉文は「初め上言しようとした際、修撰の王庭筠、御史の周昻、省令史の潘豹・鄭賛道・高坦らと私議した」と述べ、庭筠らは皆下獄し決罰が差等をもって加えられた。有司は秉文の上書は狂妄で法に照らせば追解すべきと論じたが、皇帝は言をもって人を罪することを欲せず特にこれを免じた。当時「古に朱雲あり今に秉文あり、朱雲は檻を攀じ秉文は人を攀ず」と言われ、士大夫は皆これを恥じないものはなかった。この事に座して久しく廃された。
  • 後に岢嵐軍州事同知に起用され、北京路転運司度支判官に転じた。承安5年(1200年)冬10月、陰晦が連日続いた際、宰相の張万公が入対し、皇帝は万公に「卿は天日晦冥について言ったが、これはなお人君が人を用いるに邪正を分けないのと同じで極めて理がある、趙秉文のようにかつて言事によって降授された者は、その人が才藻あり書翰に工みでしかも敢えて言うと聞いた、朕は棄てて用いないわけではない、ただ北辺の軍事が方に興っているためしばらく試みているのみだ」と顧みて語った。泰和2年(1202年)、召されて戸部主事となり翰林修撰に遷り、10月寧辺州刺史に外任。3年(1203年)、平定州に改まった。前政は用刑に苛烈で赦が至ると聞くたびに先に賊を掊って殺してから赦を拝したため盗はますます繁くなっていたが、秉文は政を為すに一に寛簡に従い、旬月にして盗は悉く跡を屏めた。歳饑には禄粟を出し豪民を倡って賑わせ全活する者が甚だ多かった。
  • 大安初、北兵が南嚮した際、秉文は待制の趙資道と共に備辺策を論じるよう召され、「今我が軍は宣徳城に聚まり城の外に小さく列営しているが、暑雨を渉れば器械は弛敗し人もまた病む、秋を俟って敵が至れば将に不利であろう、臨潢の一軍を遣わしてその虚を撃たせれば山西の囲みは解ける、これが兵法にいう『其の意わざる所に出、其の必ず救う所を攻む』というものだ」と述べたが、衛王は用いることができず、この秋、宣徳は果たして敗れたと聞こえた。まもなく兵部郎中兼翰林修撰、まもなく翰林直学士に転じた。貞祐初、時事の行うべきもの三事、すなわち遷都・導河・封建を建言し、朝廷はこれを略施行した。翌年、国家のために残破の一州を守り朝廷が民を恤む意を宣布したいと上書し「陛下は書生が兵を知らないと言ってはならない、顔真卿・張巡・許逺の輩は身を国に許した者だが、これも書生である」また「臣が死んで国に益あれば、坐して廩禄を縻し無用の人となるより勝る」と述べたが、皇帝は「秉文の志は固より尚ぶべきだが、今は翰苑にますます人を得難い、卿は宿儒として左右にあるべきだ」と許さなかった。
  • 4年(1216年)、翰林侍講学士を拝命。宝券が滞塞していることについて「朝廷が当初、市肆を更張しようと議した際、既に妄りにその不用が伝わり、これによって抑遏がますます廃絶に至った、臣愚考うるに囘易務を立て近上の職官で市道に通じる者にこれを掌らせ、銀・鈔・粟麦・縑帛の類を給し、その低昂を権じて出納させるべきである」と言い、詔で有司に議行させた。興定元年(1217年)、侍読学士に転じ、礼部尚書兼侍読学士同修国史知集賢院事を拝命。翌年、知貢挙となったが進士の盧亜を用韻の重出により取ったことに座し官二階を削られ、これにより致仕を請うた。金は泰和・大安以来、科挙の文の弊はますます甚だしく、有司はただ格法を守るのみで取る所の文は卑陋陳腐で程度に苟合するのみであり、少しでも竒峭に涉れば即座に黜落されたため文風は大いに衰えていた。貞祐初、秉文は省試で李献能の賦を得た際、格律は稍疎であっても詞藻は頗る麗しいとして第一に擢したところ、挙人は遂に大いに喧噪し台省に愬えて「趙公は文格を大いに壊した」と言い詩を作ってこれを謗した。久しくして止み、まもなく献能は再び宏詞に中って翰林に入ったが、秉文はついにこの事によって罪を得た。5年(1221年)、再び礼部尚書となり入謝すると、皇帝は「卿は春秋(年齢)が高くなったが文章の故によって復び卿を用いる」と述べた。秉文は身を以て厚恩を受けた以上、自ら効すすべなく、忠言を開き聖慮を広めることを願い、召見のたびに従容として皇帝に人主は儉勤慎兵刑を天から永命を祈る所以とすべきと語り、皇帝はこれを嘉納した。
  • 哀宗即位に際し再び致仕を乞うたが許されず、翰林学士同修国史兼益政院説書官に改まった。嗣徳が初にあるという理由で、皇帝が経史を親しんで自ら禆益し進むよう、無逸直解・貞観政要・申鑑各一通を著した。正大9年(1232年)正月、汴京戒厳の際、皇帝は秉文に赦文を作らせ悔悟哀痛の意を宣布させ、秉文は事を指し義を陳べ辞情ともに尽くした。兵が退くと大臣は稱賀しようとし秉文に表を作らせようとしたが、秉文は「春秋に新宮の火に三日哭くとある、今の園陵はこの通りである、礼をもってこれを酌めば、当に慰めるべきで賀すべきでない」と述べ、これは止められた。年は既に老いていたが日々時事を憂え、食息の間もこれを忘れることができず、便民の事一つを聞き擢用すべき士一人を聞くたびに、大なれば章を拝し小なれば当路の者に語り、殷勤鄭重で自ら止められなかった。3月、開興と改元する詔を草すると、閭巷の間で皆諳誦できるほどになり、洛陽の人は詔を拝み終わると挙城が痛哭したという、人を感動させることこの通りであった。この年5月壬辰、卒した。享年74。積官は資善大夫上護軍天水郡侯に至った。正大間、楊雲翼と共に亀鑑万年録を作って皇帝に進め、また進講に因って雲翼と共に自古の治術を集めた「君臣政要」なる一編を編んで進めた。
  • 秉文は幼くして老いるまで未だかつて一日も書を廃さず、易叢説十巻・中庸説一巻・揚子発微一巻・太玄箋賛六巻・文中子類説一巻・南華略釈一巻・列子補注一巻、刪集した論語・孟子解各十巻、資暇録十五巻を著し、著した文章「滏水集」と号したもの三十巻がある。秉文の文は弁析に長じ言いたいことを言い尽くして止め、繩墨に自ら拘らなかった。七言長詩は筆勢縦放で一律に拘らず、律詩は壮麗、小詩は精絶で多く近体で作った。五言古詩に至っては沈鬱頓挫で、字画は草書がとりわけ遒勁であった。朝使が河湟から至るたびに多く夏人が秉文及び王庭筠の起居を問うと言い、四方に重んじられることこの通りであった。人となりは至誠で楽易、人と交わって崖岸(気位の高さ)を立てず、未だかつて大名をもって自ら居ることはなかった。5朝に仕え官は六卿に至ったが、自ら奉養することは寒士のようであった。楊雲翼はかつて秉文と代わる代わる文柄を掌り、時人は「楊趙」と号したが、晩年頗る禅語をもって自ら汚したことは人もまた秉文の恨みとしたという。

史論

  • 賛に曰く、楊雲翼・趙秉文は金の士の巨擘であり、その文墨論議及び政事は皆伝えるに足るものがあった。雲翼が伐宋を諫めた一疏は宣宗が聴かなかったとはいえ、この心はどうして愧じることがあろうか、景略(王猛)に比べられよう。庭筠の累(連座)に対する秉文の為したことは大いに高允に愧じるものである。