金史卷一百九 列傳第四十七 許古

和議の建策と晩年

  • 許古、字は道真、汾陽軍節度使致仕の安仁の子である。明昌5年(1194年)詞賦進士に及第。貞祐初、左拾遺から監察御史を拝命。宣宗が汴に遷り丞相髙琪を信任し恢復の謀がない中、古は上章して「中都失守以来、廟社・陵寝・宮室・府庫、図籍・重器に至るまで百年の積累が一朝にしてこれを棄てた、聖主の痛悼の心は至って深切であり、夙夜これを思い懼れ中興の功を建てることを未だ少しも置いたことがない、臣子たる者は禄を食んで責を受けながらどうして愧じずにいられようか。しかも閭閻の細民でさえなお朝廷が師徒を訓練し恢復を計ることを顒望しているのに、今わずかに拒河自保を聞くばかりで、しかも尽く諸路の軍戸を河南に徙し、彼らは既に恒産を棄て自生の手立てもなく、土居の民もまた再びその擾に遭う、臣は誰がこの謀をなしたのか分からないが、事はすでにこうなった以上ただ処すべきところを議し、軍は妄費なく民は困窮に至らないようにするのが善策である。臣は聞く、安危の繋がるところは一相にある、孔子は『危にして持たず、顛にして扶けず、ならばまさに焉んぞこの相を用いんや』と言った、事勢がここに至って執政者が毎に天顔に対して何をもって清問に仰荅するのか分からない、今の急務は人を得るに勝るものはない、前御史大夫費摩徳仁、工部尚書孫徳淵は忠諒明敏で大用に堪えられる、近ごろ皆告老したが再び起用してこれを任じれば必ず建立するところがあり国家を利するだろう。太子太師致仕の孫鐸はなお頗る衰疾していても、もし大議があればなお召見あるいは往いて問うことができよう、人才は古来これあり凡そ治体を知る者は皆重惜すべきであり、況やこの耆旧、どうして軽々しく棄ててよいものか、もし事に臨んで心を尽くさず、あるいは心を尽くしても理に明るくないのでは、益なく損なきに等しい、たとえ壮健であってもどこに用があろうか、方今は多難であり固より碌碌の徒を員に備え尸素して賢路を塞ぐことを容れられない、陛下の宸衷が剛断で黜陟を一新すれば天下を幸いにしよう、臣は前に拾遺であった時、既に嘗て擇相の道を詳論した、臣の前奏及び今の言を取って審思を加えられたい」と述べ、また「将は民の司命であり国家の安危がこれによって繋がる、故に古の人君は必ずその選を重んじ、将たる者もまた必ず天下を己の任とした。夫れ将は謀を貴んで戦を賎とする、必ずや賞罰は人を信ぜしめ疑わせず、権謀は人がこれに由って知らせない、三軍が奔走し号令をもって勝を取り、その後、中心が誠服してこれを楽しんで用いる。近来、城守が堅くなく戦えば輒く敗北するのは皆将の不才による。私にその近しい者を賞罰不公にし衆の怨みに至りその変を生ずることを懼れて撫摩慰藉し一切姑息の事となすため、兵は将を軽んじ将は兵を畏れる、なお彼らに力を出させ敵を禦がせられようか。願わくは腹心の臣及び兵事に閑れる者に各々知るところを挙げさせ果たして真才を得て優しく寵任すれば、戦功が期せられよう、河東宣撫使の胥鼎、山東宣撫使の完顔弼、涿州刺史の内族蘇爾坦、昭義節度使の必喇阿嚕岱の如きは、あるいは忠勤勇幹あるいは重厚有謀でいずれも方面を扞ぐに任じられる」と述べ、また「河北諸路は都城既に失われ軍戸が尽く遷され、国家が挙げてこれを棄てたと思うため州県官は往々にして河南に逃奔している、所在に根括して期を立て遣還させ、違う者は再び録用しないことを乞う、未だ離任していない者は加恩の議を加え、願って河北で自効しようとする者もまた陳請を聴し、なおその日月を減じ、州県の長貳官に軍職を兼領させ、軍中で才略膽勇ある者を選んで頭目とし、あるいは爵命を加えてその心を収めさせ、一府を取れる者は即座に府の長官に授け州県もまた同様にすれば、人は復土の心を懐き、別に忠実幹済の者を遣わして文檄・官賞をもって諸脅従人を招かせれば、彼らはすでに敵役に苦しんでいる以上来る者は必ず多く敵勢は自ら削られよう、有司はこれを出せずただ清野の計をなすだけで事の緩急を問わず速辦を期している、今の晩禾は十に七八を損失し遠近が危懼しているのは謀るところが大戻と言うべきである」と述べ、また「京師は諸夏の根本であり況や今常に重兵を宿し緩急の征討は必ずここに由る、平時にはなお外路より優にし百姓に蓄積を持たせるべきで、たとえ私室にあっても公家のごときものだ、今有司が餘糧を捜括し転販者を至らせないようにしているのは即座に止めるべきだ、臣は頃く陳言を看読し、その盡心竭誠にして正論を吐く者は率いて皆草沢疎賎の人であるが、況や百僚においては誰か国のために深憂を持たず進んで章疏を奉る者があろうか、誠に中外に明勅して尽言を諱まないようにさせれば太平の長策が出るだろう」と述べ、詔で尚書省に付されほぼ施行された。
  • まもなく尚書左司員外郎兼起居注に遷り、まもなく右司諫に転じた。丞相髙琪が職官の犯罪を的決とする立法をした際、右司諫の穆延呼喇勒は「礼義廉恥は君子を治め、刑罰威獄は小人を治める、これは万世不易の論である。近ごろ朝廷は治を求めるに急であり有司は請を奏し従権して立法し、職官の犯罪で贖に応じるべき者もまた多く的決される、夫れ爵禄は貴を馭する所以であるのに、貴が辱を免れなければ卑賤な者はさらに何を加えるべきか。車駕は駐まるところで征行と同じでないのに、凡そ科徴の小過を皆軍期の罪とするのは甚だしくないか。陛下の仁恕は決して本心ではなく、殆ど有司が寛静で安を措くべきことを思わず専ら督責を事としたためだろう。しかも百官は皆朝廷の選ぶところで多く文行・武功・閥閲を経て進んでおり、凡庶と同等になれば爵禄を享受することもまた栄えとするに足りなくなる。さらに大いに慮るべきことがある、上たる者は『官さえ免れない、民がなおさら何を辞せようか』と将に言うだろうからますます苛暴の政が日々行われる、下たる者は『彼がすでにそうであるならば私もまた何の恥があろうか』と将に言うだろうからますます陵犯の心が肆になる、その弊は言い尽くせない。伏して願わくは元年赦恩の『刑は大夫に上らず』の文に依り、この一切の法を削られよ」とし、皇帝は当初これを行おうとしたが髙琪が固執して不可としたため寝された。
  • 4年(1216年)、右司諫兼侍御史となり、大兵が潼関を越えて東進した折、詔で尚書省が百官を集めて議した際、古は「兵が関を踰えて朝廷が始めてこれを知ったのは諸将が欺蔽した罪である、しかしながら大兵が閿郷の境に駐まって数日動かないのは、思うに我が河南の軍が前で陝西の衆を逆えることを恐れ、あるいは覘者を先に遣わして趨向の便を伺わせようとするか、あるいは人境深くに入るのがその地利にあらず自ら危ぶんでいるためであり、観望してすぐには進まないのだろう、この時こそ正しく鋭卒を選募して力を併せてこれを撃ち、しかもその帰路を開けば彼はすでに疑惑しており敵に遇えば必ず走るだろう、我が衆はこれに従って襲えば必ず破れよう」と述べ、皇帝はこれを尚書省に示したが、髙琪はこの議を沮み遂に行われなかった。この月、招賢所を置き詔で古らにその事を領させた。興定元年(1217年)7月、皇帝は宋兵が贛榆・漣水の諸県を陥し、しかも偽檄を獲てその辞が多く詆斥していると聞き、宰臣に「宋人が禍を構えて久しい、朕はしばらく含容していたのは兵端を開いて吾が民を労することを慮ったためのみである、今はしばしば侵されているのでどう処すべきか、卿らはこれを百官と議せよ」と諭し、都堂に衆議が集められると、古は「宋人は孱弱で我を畏れること素より深い、しかも我が北兵がまさに強いことを知り我を屏蔽と恃んでいる、時に跳梁しても計は敢えて深く入らない、その侮慢の語は特に市井屠沽児の為すところに過ぎず、どうして較すに足りようか、ただ有司に文を移させて本朝の大造ならびに聖主が生霊を兼ね愛される意を諭せばよい、彼がもし知恵があれば復び旧好を尋ねてくるだろう、それでもなお怙悪不悛であれば衆を挙げてこれを討つのもまだ晩くない」と述べた。時に議に預かる者十余人おり、多少の異同はあってもその大略は一致した。まもなく丞相髙琪らは百官の議として「厳兵設備を以て逸を以て労を待つのが上策である」と奏し、皇帝はこれを善しとした。時に朝廷は諸路の把軍官がしばしば和せず互いに訴訟することを聞いたが、古は「臣は善なる者に勧めがあり悪なる者に懲めがあるのが国の大法であると思う、苟も善悪が聞こえなければ上下は相蔽われ懲勧の所を失うことになる」と上言し、皇帝はこれを嘉納した。
  • 古は朝廷が兵を挙げて伐宋しようとしたことに疏を上げて諫め「昔、大定初、宋人が宿州を犯しやがて屡々敗れた際、世宗はその敢えて進まないことを料って和を乞い、遂に元帥府に人を遣わしてこれを議させた、これより太平は幾ど30年に及んだ。泰和中、韓侂胄が妄りに辺釁を開いた際、章宗は駙馬布薩揆を遣わしてこれを討たせたが、揆は兵興の費が重くて久しく支えられないことを慮り、密かに侂胄の族人に祖の画像及び家牒を賫させて偽って邱崈に帰附させ、これに因って継好して振旅して還った、夫れ世宗・章宗の隆盛、府庫の充実、天下の富庶をもってなお先に俯屈して成功に即き、これを祖廟に告げ史冊に書して万世の美談としたのは、今もこれを務めなくてよいだろうか。今、大兵は少し息んでおり、もし再び南辺が無事であれば太平は遠くない。あるいは専ら威武を用いれば宋人を屈服させ得ると言う者もいるが、これは殆ど虚言で実用を究めていない、たとえ時に小捷を獲ても多く賀するに足りない、彼は我が勢いの大きさを見れば必ず堅守して出ず、我が軍は倉猝に得るものがなければ須らく還って糧に就くことになり、彼は再びこれに乗じて襲う、我をして戦を欲しても得られず退こうとしても能わないようにさせれば、休兵の期はまだ見えない、況や彼には江南の蓄積の余があり我はただ河南一路の征斂の弊のみ、寒心すべきである。願わくは陛下は隠忍包容し速やかにこの策を行い、果たして和が通じれば大兵もこれを聞いて敛跡するだろう、吾に掣肘がなくなるからである、河南が既に肩を息めればその後に朔方を経略すれば陛下は中興の福を享け天下は涵養の慶に頼るであろう、願わくは陛下は近功を略し後患を慮られたい、勝ってこれに幸いを望む」と述べ、皇帝はこれを是とし古に議和の牒文を草させ、成るとこれを宰臣に示したが、宰臣は「哀祈の意があり自ら微弱を示すことになる」と言い遂に用いられなかった。監察御史の鈕祜祿蘇卜実が榷貨司同提挙の毛端卿の貪汚不法を劾した際、古はその詞理が繁雑であるとして輒くこれを刪定したところ脱漏があり、蘇卜実がこれを聞いて古は官一階を削られ解職、特に殿三年を免ぜられた。3年(1219年)正月、尚書省が諫官の欠員を奏したことにより古を候補としたが、皇帝は「朕は昨晩まさに古を思っていた、卿らがこれに及んだのはちょうど朕の意に合う」と述べその趨召を行い、左補闕を再拝命した。8月、官四階を削られ解職した。当初、朝廷は近侍局直長の温都伯嘉努と刑部侍郎の鄂屯哈斯罕を遣わし吉州の民を丹に徙して兵鋒を避けさせようとしたが、州民は遷ることを重んじ道を遮って訴えた。伯嘉努は天子が百姓を傷つけることを恐れる意を諭し、なお晋安の兵将を召して老幼を護送するよう命じたところ、衆意は兵が至れば必ず強いられると思い、遂に州署に嘩り入って伯嘉努を索めてこれを殺した。哈斯罕は禍を畏れ矯って衆情に徇い共に飲みて歌楽すること尽日、衆は肩輿を担いて導き擁し歡呼して拝謝して去った。還ると詔で古と監察御史赫舍哩徳倫にこれを鞫させ、諭旨で「伯嘉努の死は皆哈斯罕が売った(謀った)ものである、その閲実を聞かせよ」とされたが、鄂屯哈斯罕は既に下獄すると皇帝の怒りは甚だしく、亟くその情を得て典刑を正そうとしたのに古らは頗る寛縦にし、哈斯罕は自縊死し、有司は故意に出罪させたとして遂にこの罰があった。
  • 哀宗が即位すると補闕に召され、まもなく左司諫に遷り、言事は稍昔に及ばずまもなく致仕し伊陽郡に居し伊川亭を起こした。古は酒を嗜み老いても衰えず、毎に舟に乗って村落の間に出て留飲すること十数日帰らないこともあり、流に泝って上る際、老稚が争って舟を挽くこと数十里絶えず、その時人に愛慕されたことはこの通りであった。正大7年(1230年)卒した。享年74。古は平生詩と書を好んだが士大夫からは重んじられず、時論はただその直をのみ称したという。天興間、右司諫の陳岢という者がおり、事に遇えば輒く言い少しも隠すところがなかった。皇帝はかつてこれを面奨し、汴京が兵を被るに及んでしばしば封事を上げて得失を言い、戦を請う一書は最も剴切であった、その略に「今日の事は皆陛下が不断であり将相が怯懦であることに出る、もし因循して決しなければ一旦如何ともできなくなり恐らく君臣相対して涕泣するのみであろう」とあった、時の病に切中していたと言うべきである、しかし時相の喀齊喀らはこれを特に嘉として策を沮んだため識者はこれを惜しんだ。岢、字は和之、滄州の人。大安元年(1209年)進士。

史論

  • 賛に曰く、宣宗は即位して以来、孜孜として世宗を継述することを志としたが、その為すところは一切大定に反した。講和して南北が治を称したのに、貞祐は用兵して生民は塗炭に陥った。石琚が相たる時は君臣の間で務めて寛厚を行ったが、髙琪が政を秉ると儒を悪んで吏を喜び上下が苛察となった。完顔蘇哷は真っ先に琪の悪を攻め、琪は必ず紀綱を乱すと言った。陳規は刀筆吏の残虐が風俗を壊すことを力説した。許古は宋との和を請いその辞は極めて忠愛であった。三人の言うところは皆時病に切中し古の諍臣の風があったと言えよう。宣宗はその直を知りながらその言を用いなかった、これでは世宗に比隆しようとしても難しいであろう。