高琪の党與としての武功
- 伊喇托卜嘉、東北路明安の人。明昌初、西上閤門使に累官。2年(1191年)、父の穆昆を襲い、泰和年間の伐宋で功があり遥授同知慶州事、権徳哷勒乣詳衮に任じた。父の喪に服した後起復して西北路招詔判官・尚輦局使・曹王傅を歴任。貞祐2年(1214年)、武寧軍節度使に遷り中都の乣軍を招徠しようとしたが功はなかった。平章高琪はこれを庇い、武衛軍都指揮使に召された。応奉翰林文字の完顔蘇呼はかつて高琪の党比を面奏した(高琪伝に詳しい)。まもなく知河南府事兼副統軍となり、彰化軍節度使に徙り、山東・河間・大名の明安人を悉く籍して兵とし老弱は城守に、壮者は捍禦に充てるべきと上言、また河東の地は険しく人は勇敢で歩兵は天下の冠であり尽く調して諸隘を戍らせるべきと述べ、これが従われたが、以後、河東郡県は屯兵が少なく守れなくなった。
- 知臨洮府事兼陝西副統軍に改め、貞祐3年(1215年)11月、夏兵を熟羊寨で破り、平章髙琪は宰臣を率いて入賀し「托卜嘉が少数で衆を破ったのは陛下の威徳の致すところである」と述べ、宣宗は「古より興国は皆忠賢に頼る、今の立功もまた将率諸賢の力である」と述べた。托卜嘉は勧農使兼知平涼府事に任じられ、銀青栄禄大夫に階を進めた。4年(1216年)、西夏を伐ち威・霊・安会等の州を攻めた。興定元年(1217年)、慶陽府を知り、3年(1219年)、元帥左都監に遷り卒した。
史論
- 論に曰く、髙琪が執中を擅殺した際、宣宗はその罪を正すことができず、かえって曲説をもって臣下に詔した。事を論ずる者からすれば、人君が大臣を誅殺しようとして近侍と宮中で密謀するのは既にその道にあらず、謀ることが密でなく外臣に知られてこれを敗軍の将と告げられ、これによって殺してその説を為すというのでは後世を欺けようか。金は南渡に至って譬えば尫羸の病人のように元気が乏しかったのに、髙琪は吏を喜び儒を悪み兵を好み静を厭い、乣を遷す議を沮み宋と和する謀を破った、これは正に繆医が烏喙・附子を投じてその亡を速めたに等しい。ああ、宣宗は擅殺の日に即座に大義を伸べて誅すべきであったのに、どうして国を誤ることかくの如くに至ったのか。