金史卷一百五 列傳第四十三 孔璠

衍聖公襲封と子孫

  • 孔璠、字は文老、至聖文宣王の49代孫で、故宋朝奉郎襲封の端友の弟、端操の子である。斉の阜昌3年(1132年)、迪功郎に補せられ衍聖公を襲封し祀事を主管した。大会15年、斉国が廃され熙宗が即位すると制度礼楽が興り、上京に孔子廟が立てられた。天眷3年(1140年)、詔で孔子の後を求め、璠に承奉郎を加え衍聖公を襲封し奉祀させた。この時、熙宗は論語・尚書・春秋左氏伝や諸史・通鑑・唐律を頗る好み、乙夜まで読み止まなかった。皇統元年(1141年)3月戊午、皇帝は孔子廟に謁奠し北面再拝し、侍臣に「朕は幼年に遊佚し志学を知らず、歳月が逾邁したのを深く悔いている。大凡善を為すには勉めねばならない。孔子は位がなくともその道は尊く万世に高く仰がれる」と語った。皇統2年(1142年)、璠は卒し、子の拯が承封し文林郎を加えられた。
  • 拯は天徳2年(1150年)襲封を定められ俸格を常品より加えられた。この歳、国子監が立てられた。後に承直郎を加えられ、大定元年(1161年)卒した。弟の総が承封し文林郎を加えられた(字は元会)。大定20年(1180年)、総を京師に召し官に就かせようとしたが、尚書省は「総は先聖の祀事を主る、任使を加えれば守奉に欠けが生じる」と奏し、皇帝は然りとし、曲阜県令に授けた。明昌元年(1190年)、総は卒し、子の元措が承封し文林郎を加えられた。
  • 元措、字は夢得。承安3年(1198年)4月、詔で「衍聖公は四品に視されているが階は八品に止まる、超遷して中議大夫とし永く令に著すべし」と定められた。4年(1199年)8月丁未、章宗は釈奠礼を行い北面再拝し、親王百官・六学生員が陪位した。承安2年(1197年)正月、元措は曲阜県令を兼ねるよう詔で世襲とされた。元措は宣宗・哀宗に事え、その後大元に帰し没した。48代の端甫という者は、明昌初、学士党懐英が「年徳共に高く、読書楽道し古学に該通する」として推薦し、京師に召され特に王沢の榜を賜って及第し、将仕郎小学教授に除せられ、主簿として奉祀し致仕した。