金史卷一百四 列傳第四十二 烏凌阿
辺境の政
- 烏凌阿、本名和卓、大名路納琳必喇明安の人。奉職・奉御・尚食局直長兼頓舍を歴任し監察御史に累進した後、武勝軍節度使・北京按察転運使・太子詹事・武衛軍都指揮使を歴任。貞祐2年(1214年)、知東平府事権宣撫副使、西安軍節度使を経て兵部尚書に入った。按察転運使が銭穀を拘搉し違法を紏弾する権限は平時の治法であって、今のような兵動の際は軍士の負担となるため按察・勧農使を罷めるべきと上言。また東平の屯兵1万余に浜塩の運搬・糧秣の給与を、潼関・黄河の津要の将校が卒伍出身の庸懦である点を材武の者に代えるべきと述べ、兗・曹・濮・濬諸郡に重兵を屯し州県官に力穡を勧めるよう主張したが、尚書省は施行しなかった。新制の科買軍器材物の稽緩者を的決するに際し、民が耐えられないため罰を月俸に量減すべきと述べ、これは採用された。陝州で市物の値を虧いた罪で鄭州防禦使に降格されたが、まもなく拱衛直都指揮使に召され、再び兵部尚書となり、興定3年(1219年)卒した。