金史卷九十九 列傳第三十七 孫鐸

段階

  • 字は振之、滕州から恩州へ移住。遼陽王遵古に将来を嘱望され大定十三年(1173年)進士。章宗が右丞相の時「事を治めること孫鐸のようであれば誤りがない」と評した。同知登聞検院として上訴案件の処理制度改善を進言。刑律の名例篇編纂を主導、左諫議大夫、河東南路転運使、中都路都転運使を歴任、講議銭穀官の首席に選ばれた。
  • 戸部尚書として法令の頻繁な変更を戒める上奏を行い、国子司業赫舎哩善才も同調。交鈔問題では張復亨との論争で「三合同鈔廃止」を主張し勝利、世宗(原文では上とあるが章宗)に「魏徴に劣らぬ剛正な人」と評された。度重なる要職を経て参知政事に至り、蒲陰県令大中らの「私議朝政」事件では「鄭人游郷校」に例えて軽罰化を実現。鈔法改善策(院務課程・窠名銭の全収、交鈔での小額決済推進)を献策し実行された。
  • 大安初め黄門李新喜誅殺議論で「先朝の用い過ぎ」と評したが衞紹王には不興を買った。尚書左丞兼修国史、鈔法忤旨で濬州防禦使に降格。宣宗即位後召還されるも道の梗塞で果たせず、太子太師として貞祐三年(1215年)致仕、同年薨去。