金史卷九十七 列傳第三十五 張大節

段階

  • 代州五臺の人。天徳三年(1151年)進士、東京市令として世宗の留務時に重用された。海陵の遼東改元時「自ら定分あり」と赴任要請を断った逸話がある。左警巡使、大理司直を歴任、豪民杖殺で削官されたが後復帰、工部郎中として阜通監の鋳銭弊害を正した。戸部郎中として讒言による民の誣告事件を明察した。工部・戸部侍郎、宋への使者、横海軍節度使を歴任、章宗即位後は太原府知事として神明と称される裁断(男の妻の哭泣の不自然さから犯人を見抜く)を見せた。銀冶を巡り「山沢の利は民と共に」と官榷に反対、河東路提刑使を経て大興府知事、致仕を経て震武軍節度使、承安五年(1200年)享年八十で卒去。奕碁の名手としても知られた。世宗は「王翛より剛直で優れる」と評した。

巖叟(大節の子)――段階

  • 大定十九年(1179年)進士、監察御史などを歴任、大安三年(1211年)城門封鎖案に反対し「城を任ずるのは人を任ぜず」と論じた。鎮西軍節度使、定国軍節度使を経て貞祐年間に致仕、洛陽に寓居し卒去。