段階
- 中都路の明安人。熙宗の護衛選抜で名を記されるも父の老いを理由に辞退した逸話がある。海陵伐宋で隆州の精鋭軍を率い、宋の刺客を射殺するなど功があった。海陵弑逆の報を聞き哀慟した忠義心を世宗に高く評価された。斡罕討伐や奚人の乱鎮圧に佩符して従軍、大興尹、殿前都点検を経て尚書右丞・左丞に進む。推排明安穆昆政策で「戸口物力を通括すべき」と主張し採用された。平章政事・任国公、上京留守、真定府知事などを歴任。承安三年(1198年)薨去、致仕宰相への祭葬礼が特例として許された。太子率府完顔守貞・監察御史裔を推挙し、後に名臣となった。
鈕祜祿額特埒――段階
- 蓋州の人、貞元初め女直字習得により戸部令史から尚書省令史。宋との緊張関係の実情調査を担い「妄言」と的中を評価された。夏国の祁安城築城問題や喬嘉族首領扎実結殺害事件の実情調査で正確な報告を行い、世宗を悦ばせた。夏国生日使、右副都点検、河南路統軍都監を歴任、参知政事に至る。世宗との対話で「人材登用が最も難しい」と説き、朋党疑惑にも慎重な判断を示した。尚書右丞兼樞密副使、左丞を経て、宗浩の登用を推薦。上京留守、致仕を経て承安初め東京留守として再登用、平章政事・芮国公として在位数月で薨去、享年六十九。温厚醞藉な人柄で赫舎哩良弼に推挙された。