金史卷九十四 列傳第三十二 𤓰爾佳清臣

段階

  • 呼爾哈路罕都の人、姿状雄偉、騎射に優れた。皇統八年(1148年)祖布達の明安を襲い、大定元年(1161年)世宗即位を聞き本部軍六千を率い中都に赴き、赫舎哩志寧の下で管押万戸として斡罕討伐に功があった。宋兵の汝州襲撃を撃退、宿州で李世輔を破るなど戦功を重ね、宿州防禦使、西北路招討都監を経て左副都点検、陝西路統軍使兼知京兆府事。
  • 西京留守、樞密副使を経て明昌元年(1190年)東北路兵馬都統制使、娘が昭儀となり寵遇されて尚書左丞、平章政事・芮国公に至る。承安五年(1200年)左丞相・密国公。北辺の軍事で虚実を偵察させ策を立てるも、部下が獲得した資物を色徹に奪われたことへの罰俸要求から北準布の叛乱を招き、右丞相襄に交代を命じられた。降授横海軍節度使を経て致仕、泰和二年(1202年)薨去、享年七十。子伊扎爾が明安を継ぐ。当初の征討策は主導したが功罪相半ばし、数年北辺が不安定であったことを世に非難された。

丞相襄(本名安)――段階

  • 昭祖五世孫、祖実古納は太祖の遼平定に功。父阿嚕岱は皇統初北伐で参知政事。襄は幼くして志節に富み騎射に優れ十八歳で世爵を継いだ。大定初め契丹叛乱討伐で黙音の下、肇州長濼の戦いで先登、七戦皆勝の功があった。裊嶺西の陥泉での大破戦、斡罕の追撃戦でも功第一と評され、亳州防禦使(若干二十三歳)に抜擢された。
  • 潁州・濠州(横澗山攻城で伏弩に膝を負傷)・滁州(清流関奇襲成功)の戦功、拱衛直都指揮使、東北路招討都監、率賓路節度使を歴任。丞相志寧の危篤時、後継として推挙された。宋への生日使として国書問題を折衝、陝西路統軍使、河南統軍使、吏部尚書、都点検などを歴任し、世宗から高く評価された。尚書右丞、左丞、平章政事に至り、金源郡王への王爵付与時の国号(原王)を決定した。
  • 監軍の是非(漢唐初の専任将軍制の優位)を論じ、北部進貢の使還時の辺務策を進言。右丞相・戴国公。世宗崩御の際、太尉克寧・平章政事張汝霖と共に受遺命。章宗初政での僧道奴婢問題は克寧と異なり「元来の奴婢は放免すべき」と主張し実現、二税戸の多くが良民となった。
  • 平陽府・鳳翔・西京留守を経て北方の軍事を担当、西北路招討使等を率い龍駒河で凖布に囲まれ苦戦しつつも救援を成功させた(夜間強行軍による奇襲)。契丹の反乱(信州で徳寿らが偽建元)を鎮圧、郊祀の是非を巡る議論でも大礼断行を進言し、賊平定と郊礼を両立させた。南陽郡王に進封。契丹討伐の功績評価では自らの専断を認めず制度に則った処理を求めた。乣人の処遇についても融和策で成功を収めた。
  • 左副元帥、樞密使兼平章政事として北京の民を救済、北討策として宗浩らを派遣しつつ自ら臨潢に出陣。壕塁・城塞の構築を進め北陲を平定、屯兵を四万・馬二万匹減らして凱旋。左丞相、司空を歴任、慎重で鎮静を重んじる政治姿勢で知られた。提刑司制度の存廃論争でも省事を説き、天旱の際は自ら待罪を上表した。泰和元年(1201年)亳州太清宮への祈祷使として赴き、帰途で薨去、享年六十三。太師淄王克寧に準じる礼で葬られ、諡は武昭。明敏な才武の人で、政府に二十年在り、故事に明練で器局が寛大、大安年間章宗廟庭に配享。