段階
- 字は同文、遼五院人。皇統間、遼史編纂に掾属として参加。正隆元年(1156年)諸将巡辺の監戦を務め、戦利品の分配を辞退し海陵に清廉を評された。契丹撫恤や国書問題(宋の采石敗戦の虚偽記載への反論)に関与、右諫議大夫、修史職を歴任。世宗との対話で契丹撫恤策や山後禁猟地の緩和を提言し採用された。同簽宣徽院事伊喇錫勒塔干との対話で「亡遼が旧俗を忘れなかったことを海陵は忘れた」と評した。
- 世宗と史官の在り方(宰相との議事を史官に知らせるべき)を進言。興中尹在任中、娘が盗賊に襲われた際、賊は府尹の家と知り財を返還したという逸話がある。大定二十一年(1181年)致仕、享年七十一。使宋・受貢品はすべて親旧に散じ、家に余財なく子は宅を質に葬儀を行った。
史論
- 金の制度では尚書令・左右丞相・平章政事を宰相、左右丞・参知政事を執政と呼ぶ。おおむね唐制を踏襲しつつ異同がある。『書経』の「元首明哉股肱良哉庶事康哉」「元首叢脞哉股肱惰哉萬事隳哉」の言葉に照らせば、宰相と執政の道は異ならない。蘇保衡・翟永固・魏子平・孟浩・梁肅はいずれも当時の賢執政であった。伊喇慥・子敬は才を有しながら時に恵まれず地位が及ばなかった、これもまた運命であろう。