三国を渡り歩いた「渤海の梟雄」
- 渤海鐵州の人。遼が遼東人を集めて組織した「怨軍」の頭目であったが、烏楞古に顕州で敗れ、耶律聶哷の常勝軍改編で諸衛上将軍に抜擢された。聶哷死後、蕭妃摂政下で涿易二州とともに宋に帰属したが、宋兵で燕京を急襲するも蕭妃の巷戦で大敗、宋人になお厚遇された。太祖が燕山六州を宋に割いた後、王安中が張覺を庇わず殺しその首を宗望に送った一件で宋への不信を深め、宗望軍が三河に至ると白河の戦で敗れて降伏、太宗から燕京留守・完顔姓を賜り伐宋に従軍、宋の内情に精通した助言で宗望の懸軍深入策を成功に導いた。海陵即位後は本姓に復した。子安國は南京副留守として貞元三年の南京大内火災の責任を問われ杖罰・削官を受けたが、海陵伐宋では兵部尚書として先鋒に立ち、康王捕縛後の処遇を助言して海陵に喜ばれた。世宗擁立の動きが伝わると浙西道兵馬都統制府副として海陵に仕えたが、海陵弑逆後は李通らとともに衆に憎まれ殺された。
史論(郭藥師について)
- 賛にいう。郭藥師は遼の残孽、宋の禍の階、金の功臣であった。一身にして三国の禍福を担ったこと、その帰趨の甚だしさよ。魏の公叔痤が主君に衛鞅を殺すよう勧めた故事にも通じるものがあるのだろうか。