行台を支えた歴戦の将
- 遼陽の人。太祖の伐遼時に太祖に見出され収養された。東京奚民穆昆として反側の監視に功があり、遼軍二十万との戦で「大丈夫たるもの勝負を決さずして何をするか」と自ら出戦を志願し武名を挙げた。宗望の伐宋では信德府・濬州渡河作戦で先陣を切り、河間攻略後の乱暴掠奪を諫めて贖還させた。宗弼の江南攻略では渡渉戦(水の深さを見て舟を捨てて岸を急襲)や杜充軍撃破に功を挙げ、揚州都統・河間尹などを歴任、太宗に太子太保として厚遇された。齊国廃止後は汴京を守り、元帥右監軍・左監軍を経て天德二年右副元帥兼行台右丞相となった。海陵が薩里罕を疑い監視させた事件では、薩里罕がそれと知らず大㚖と軍事を争って隙が生じ、海陵は薩里罕を殺した後、大㚖を尚書右丞相・神麓郡王とし、太傅領三省事・漢國王に至り六十八歳で薨じた。海陵は自ら哭礼を尽くし三日の廃務・禁楽を命じたが、正隆間に王爵を奪われ太傅・梁國公に改贈された。子は磐。
- 磐(本名富色克)は登州刺史から布薩忠義の伐宋に功を挙げたが、伐宋の恩賞への不満を漏らしたことで杖罰を受け、良弓の私用や護衛入直の勝手な交代などで再三処罰され、隴州防禦使に落とされた。世宗から「父の功に免じ廃棄しないが、慎んで励め」と戒められた。剛暴な性格から重用されなかったが、世宗は「太傅大㚖に嫡嗣がない以上、その世襲明安穆昆は改められない」として存続させた。