金史卷八十 列傳第十八 錫黙阿里

熙宗の二子――夭折した太子と魏王

  • 悼平皇后は太子濟安を、賢妃は魏王道濟を生んだ。濟安は皇統二年(1142年)二月に生まれ、熙宗が二十四歳で初めて皇子を得た喜びから盛大な儀礼(命名・大赦・皇太子冊立・皇后父和坦の王封)が行われたが、この年十二月に病が重くなり、上皇后が寺で焼香し哀願するも夜に薨じ、英悼太子と諡され興陵の傍らに葬られた。上は儲慶寺にその像を塑らせ度々参詣したが、海陵が上京の宮室を毀した際に寺も毀された。
  • 道濟は皇統三年、中京留守に任ぜられ阿蘭・張玄が輔導したが、まもなく魏王に封ぜられ母賢妃とともに宮中で養われたものの、熙宗の怒りを買い殺害された。

史論(熙宗二子について)

  • 賛にいう。建国当初は制度が未だ整わず、太宗・熙宗はいずれも安班貝勒(漢語で最尊官の意)から帝位に即いた。熙宗が濟安を皇太子に立てたことで、初めて名位が正され制度が定まったのである。

水陸を問わぬ歴戦の勇将

  • 父歡塔は穆宗の代に内附し戦功を重ねた。阿里は十七歳で伯父和摩爾噶に従い卓多討伐、高麗の九城築造への攻撃、圖們水での敵撃破など数々の戦功を挙げ、一日に三度の重囲を破る奮戦で碩碩歡に厚く賞された。寧江州・信州・賓州の攻略、蘇復州の十万の反乱鎮圧(必爾罕水の激戦)、契丹奚人の海路脱出阻止(二回矢を受けながら戦い抜く)など、陸戦・水戦いずれにも功を重ねた。棟摩の張覺討伐、宗望の伐宋(真定攻略・汴京包囲)、宗弼の江南攻略(淮南・杭州・明州追撃戦)にも従い、睿宗の陝西経略にも先鋒として加わった。宗弼の再度の伐宋では老齢ながら戦船建造を督励し、七十八歳で薨じ智敏と諡された。忠直で多智略、兄弟の愛に篤く、家産をすべて弟阿布哩に譲ろうとしたが固辞され、一年余り身を隠された末にようやく受け取らせたという逸話が伝わる。