講和使として抑留の末に殺される
- 宋の宰相王旦の弟の玄孫で、当初は無頼の徒であったが、天会五年通問使として金に赴き数年抑留された末、和議を提唱して帰国を図った。金の元帥府から「これは江南の実情ではなく、そなた自身の言葉であろう」と疑われつつも、康王に和議を説き重用された。天会十五年、達蘭の齊国廃止・河南帰趙の意向を受け宋との交渉役を務め、宋から端明殿学士簽書樞密院事に任ぜられ再度金に赴いた。だが宗磐・宗雋・達蘭の謀反発覚により事態は急転、康王の上表文の形式不備を咎められ抑留された。皇統二年の和議成立で天水郡王(欽宗)の柩と韋太后らの送還が実現したが、王倫自身は平州路転運使への任命を固辞したことで「反覆の人」とみなされ、上京で処刑された、享年六十一。
史論(宇文虚中・王倫について)
- 賛にいう。孔子は「行いに恥を知り、四方に使いして君命を辱めない、これを士というべきである」と言った。宇文虚中は金に着くやすぐに官爵を受け、王倫は市井の紈袴子弟の徒であった、これがどうして「行いに恥を知る士」として専使に足る人物といえようか。二人の死は冤とはいえ、その招いた咎は多分に自業自得であった。