金史卷七十九 列傳第十七 宇文虚中

誣告により処刑された才人

  • 蜀の人。宋の資政殿大学士から、天会四年、汴の攻防の交渉役として宗望軍に赴いた縁で後に金に留められ祈請使となったが、天会六年に完全に抑留された。金の礼制度の議論に才芸を評価され官爵を受け、韓昉らとともに詞命を掌り、宗翰の致仕辞令なども起草した。翰林学士知制誥・太常卿・河内郡開国公に至り太祖睿徳神功碑を撰した。皇統二年の和議で宋への送還対象者リストに家族が含まれ、子師瑗が北来した。禮部尚書承旨に至ったが、才を恃んで軽率に女直人を「礦野」と評すなど権貴の怨みを買い、宮殿の扁額に嘉美な名を撰したものが後に謗訕と曲解され、皇統六年、家奴杜塔富拉の謀反誣告により鞫問された。証拠として家蔵の図書を反具とされたが、虚中は「南来の士大夫は誰でも家に図書を持つ、髙士談の方が私より多い、それも反というのか」と反論、しかし有司は容れず高士談ともども殺された。両人ともに文集が世に伝わる。