金史卷七十九 列傳第十七 張中孚

涇原の帰順将

  • 中孚は宋の太師慶國公張達の子。宗翰の太原包囲で父が戦没した際、自ら遺骸を求めて敵陣に入り遺体を持ち帰った孝行で知られる。鎮戎軍兼安撫使として呉玠・張浚に従い金軍に抗したが、天会八年、睿宗の涇州進駐に際し降り鎮洮軍節度使・知渭州兼涇原路経略安撫使となった。齊国の什一括田政策に対し「涇原の地は瘠せて良田なく、保甲の法も既に定着している、急な変更は民の逃散を招くだけ」と実施を拒み通し、齊国廃止で結果的に一路だけ苛政を免れた。天眷初め陝西諸路制節使・知京兆府、宋への河南陝西返還の際に一時宋に入ったが、宗弼の河南陝西再定で金に帰り、参知政事・尚書左丞・南陽郡王を歴任、済南尹・宿王・崇王を経て五十九歳で卒し鄧王を追贈された。士卒への統率は厳しくも情があり、西方の民に愛され葬儀には数万人が集まり市が休業したという。
  • 弟の中彦は宋の涇原副将・知徳順軍事から睿宗の陝西経略に降り、彰武軍承宣使・都総管を歴任、鞏州・饒風関攻略に功を挙げ興元尹として新附の民を撫輯、秦鳳経略使として秦州の防備を北山に移し要害を築いた(現在の秦州の基礎)。臨安に一時抑留された後、皇統初め河南回復に伴い金へ帰参、彰化軍・鳳翔尹・慶陽尹などを歴任、宗室宗淵の殺人事件を敢然と法により裁いた。汴京新宮の造営では関中の巨木輸送に長橋を架け山道を開いて木材を運ぶ工夫や、精巧な模型(鼓子卯)による舟の設計、大艦を氷上を滑らせて進水させる工法など、卓越した土木技術を発揮した。西蜀道行営副都統制、世宗即位時には諸将の動揺を鎮めて帰順を導き宗國公に封ぜられた。吏部尚書として関市の過剰な検問を批判し改めさせ、南京留守では戍兵の犯罪を法通り処断して帥府の専決批判を受けたが朝廷は不問とした。西羌四族の帰順交渉も自ら赴いて成功させ、儀同三司を加えられ七十五歳で官のまま卒し、百姓が哀号し市を休んで像を祀ったという。

史論(酈瓊以下の降将たちについて)

  • 賛にいう。古来、才乏しき武人は世変に遭えば先を争って降る、これは常態であり君子はこれを深く責めない。酈瓊・徐文はその類である。施宜生は反覆常なき佞人、李成は盗賊上がりの粗暴者、孔彦舟は色を貪り人倫を絶ったこと、いずれも咎めるまでもない。張中孚・中彦は小さな恵政こそ称えられるが、宋の大臣の子として父が金と戦い戦死しているにもかかわらず、金にも齊にも宋にも利のあるところへ次々身を寄せた、その時代においてはもはや綱常など顧みられなかったのであろう、ああ。